わたしはここに生きた   <盲人会五十年史> 国立療養所大島青松園盲人会五十年史

                   本書をハンセン病盲人に愛と理解を寄せられた多くの人々に捧げる

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第2部 「灯台」の群像

 第3章 絆

 31 祖母の思い出          寺 都 文 代

  祖母が亡くなったという知らせを受けてからはや10年近くになります。私は生前の祖母に長い間苦労ばかりかけてきたので、感謝の気持から、タンスの上に祖母の写真を飾り、四季の果物やお菓子など供えて、ありし日を偲んでいます。“生きるということは苦なり”と、その昔、吉田絃二郎先生が何かの本に書いておられましたが、祖母の一生もその通りだったと思います。
 祖母の実家は貧しい農家で、兄弟も多く学校へも行けず、昔のことだから、10歳になると子守奉公に出され、次から次へと他人の家で苦労ばかり重ね、十八歳のとき縁あって祖父のところへ嫁いできたそうです。それから祖父とふたりで、“稼ぐに追いつく貧乏なし”と働いて働いて、小さかった家も大きく建て替え、その上田畑もふやしたというのが、祖母の自慢話の一つでした。私の家は兼業農家で、祖母と母とで百姓をしておりましたが、母は私と幼い妹がいるため、家の周囲の畑仕事や家事で精いっぱいだったそうです。それで祖母は人を雇ったり手間替えをしたりして、一家をきりまわしていたとのことです。どうした事情があったのか知りませんが、母は父と別れ、ぞの母も私が小学校1年生のとき再婚しましたので、祖母が主婦の座にもどり、孫の私が家を継ぐことになりました。祖母は野良仕事、家事一切、それに味噌、醤油、漬物まで作り、さぞ大変だったことと思います。そんな祖母はいつも夕食がすむと、決ったように一日の疲れが出るのか、居眠りをはじめるのでした。その様を見て私はよく笑ったものですが、いつも無口な祖父がそれを見て大きな雷を落としていました。その声にびっくりした祖母は、私に、「肩を百ほどだたいてくれんか、目が覚めるけえ」と言うのでした。私が肩をたたいてあげると、「ああ楽になった、目が覚めた」と言って、それから夜なべ仕事を姑めるのでした。そんな苦労ばかりの祖母でしたが、性格は至って明るく朗らかで、毎日仕事に追われていても婦人会の演芸会には必ず引っぱり出され、男に変装して踊りや喜劇を披露してみんなを笑わせ、拍手を浴びていました。そんな舞台姿を見るのが私は恥かしいやら心配やらで、家に帰ってから祖母に、
  「おばあちゃん、もう演芸会には出なさんなよ、恰好が悪いけえ」
 と言うと、
  「ワシが出にゃ始まらんとみんなが言うけえ、もっと齢をとったら、出てくれと頼まれても出られんようになるけえ」
 と言って笑っていました。
 それから数年後に、私はハンセン病に罹ったのでした。それ以来、健康で平和な家庭も一変して、祖母は毎日神様や仏様にお詣りに行き、祈祷してもらっていました。そして家に帰ると、便所や井戸の位置が悪いとか、かまどの向きが悪いと言われたことを気にして、仕事も手につかず、私の病気によいという薬は、広告を見たり噂を聞いたりして、こっそり買い求めてきました。“溺れる者は藁をもつかむ”のたとえの通り、祖母は私のために走り廻って出来得る限りの手を尽くしてくれました。しかし私の病気は一向によくならず、それに加えて警察は、うるさいほど療養所へ行くように勧めにきましたが、祖母は聞き入れませんでした。それで警察の方はひどく怒りましたが、なんにも悪いことはしていないのに、なんで病気に警察がくるんやろうか、と情ないやら悲しいやらで、祖母と2人で泣いたこともありました。そんな或る日、例の警察の方が来て療養所のパンフレットを祖母に渡して、よく読んでおくようにと言って帰りました。その夜から祖母はパンフレットを読んだり、療要所の写真を見たりして、少しは理解したようでした。私は祖母たちに、いつまでも心配ばかりかけてはいけないと思い、病気が治るのなら療養所へ行って治したい、と祖母に話しました。すると
  「お前がそう思うんなら、ワシもいっしょに行ってどんなところか見てきたい」
 と言うのでした。このことを警察の方に話しますと、
  「この娘が1人行くんじやない。連れもいることだ、心配しなくてもよい。それに僕も付添って行くんだ」
 とこれまでとは違った態度で言うのでした。それから何日か経って、同じ病気の人だちと一つの汽車に乗り、船に乗って青松園に来たのでした。人の出会いというものは不思議なもので、いっしょに入園したというだけで、全く知らないところでの生活に、親子兄弟のようにしていただき、だんだん療養所のくらしにも馴れて、毎日のように書いていた便りも遠ざかり、次第に心も落着いてきました。
 そうした或る日、病気らしい病気をしたことのなかった祖父が、病気で寝こんでいることを知らせてきました。しかし、祖父の病名ははっきり分らず、祖母がつきっきりで看病しているとのことでした。私は毎日祖父の病気はどうだろうかと案じ、早く元気になってくれるように祈っておりました。すると大分よくなった、との便りがあり、安心していた矢先に、「ソフキトク」の電報につづき、「ソフシス」の報に接し、あまりのことで信じられず、ただ茫然としてしまいました。今日にでも帰して欲しい、と電報を手に補導部(現福祉室)へお願いに行きましたが、父親でないからいけない、と冷たく帰省の許可が下りませんでした。残念に思いながら願い通した結果、半年後にやっと念願が叶えられ、長い間苦労をかけた祖父の墓参りができたときの嬉しさは、言葉で表わせないものがありました。夢にまで見ていた我が家の敷居をまたぎ、祖母の顔を見たとたん、悲しみの涙が堰を切って流れ、どうしようもありませんでした。暫くは胸がつかえ、言葉も出ませんでした。
  「おおふみか、よう戻った」と押しつぶしたような祖母の言葉に、やっと気も落着き我にかえったのでした。家の中はどことなくガランとしたようで、裸電球のあかりも暗く感じられました。その夜は亡くなった祖父の話しや、療養所の模様など話しはつきませんでした。祖父が亡くなる前私の妹に、
  「ふみとお前が一人前になるまで頑張ろうと思ったが、もう駄目かも知れん。ふみは病気になってしまうし、おばあちやんを頼むぞ」
 と言ったそうです。また祖母には、
  「知らない土地でふみは苦労しているだろうけえ、土地を売ってでも不自由させないようにしてやれ。病気の者を粗末にすると不幸が絶えんけえ、ふみを大事にしてやれよ」
 と、後は言葉もなかったそうです。その話しを聞いて私は胸がいっぱいになり、死に目にも逢えなかった祖父の冥福を折ったのでした。その後も四季折々の品を送ってくれるのも、祖父の心がこめられていたものと思います。
 戦争がはげしくなり、食糧難に加え治療薬もないまま私の病気は悪化し、再びふるさとへ帰ることはできませんでした。その代りに祖母と妹が面会に来てくれるようになりました。B29が日本の空を飛びまわるようになった頃には、私のことが気にかかり、祖母はもうこの世で私と会うことはできないと思い、空襲でいつどこで停るかも知れない汽車に乗り、会いに来ることに決めたとのことです。そこで親戚のところへ10日ぼど手伝いに行くからと、役場で嘘の証明書をもらい、食糧をリュックサックに詰めこんで、住所氏名、連絡先を書いたものを肌につけ、命がけで面会に来てくれたこともありました。
 私は終戦後の21年秋頃から、だんだん声が出にくくなり、寒さが増す毎に喉がつまり、息苦しくて夜など眠ることもできず、坐ったままで朝を迎えたこともたびたびありました。あまりの苦しさに、私は祖母に痰切りの薬や、心臓に利く薬などあれば薬局で買うなり、富山の置き薬でも送ってもらいたい、こんな状態では喉を切るようになるかも知れない、と便りを出しましたところ、その手紙が着くか着かないうちに、面会との知らせがありました。誰だろうかと思いながら、急いで面会所に行ってみると、祖母が顔色をかえて立っていました。私は、
  「おばあちゃん、どうしたんな。正月前の忙しいときに来てくれたんな」
 と言うと、
  「ふみや、よかった。無事に会えてよかった。お前が喉を切ると書いてあったが、ワシは死ぬのじゃないかとびっくりして、急いで汽車に乗って、こりゃ間に合えばええが。気はあせるが汽車は遅いように思えて、気が気ではなかった。でもお前の顔を見て安心した」と言って、ほっとした様子でした。私が苦しまぎれに書いた手紙を見て、祖母は私が喉を切って自殺するのではないかと思ったらしく、
  「ワシの慌て者の早合点も困ったもんじゃ」
 と笑いながらも、涙が頬を伝っていました。病気のためとは言え、祖母にとんだ心配をかけてしまい、悪いことをしたような思いと、中しわけなさで胸が熱くなりました。
 そして妹も年頃になり、嫁にほしいという方があったそうですが、私の病気を隠して嫁に行くのはいやだと妹も言い、祖母も手ばなしたくなかったようですが、私の病気のことを明かし、面会にも年2、3度は行かせてもらう条件をつけて話し合ったところ、先方も理解してくれたので嫁に出すことに決めたと、報告を兼ねて祖母と妹が面会に来てくれました。私は、
  「おばあちゃんひとりになっても大丈夫な」
 と言うと、
  「ワシのことは心配せんでもええ。お前のことを理解してくれる人だったら、コレもかわいがってもらえるだろうけえ、ワシはひとりになっても寂しいことはない」
 と、祖母は私を労わるように言うのでした。つもる話しをして2人が帰る朝、急に季節風が吹き出し、出航した船は途中から引き返したまま数日間欠航してしまい、帰るに帰れず、寒い上にすることもなく、祖母は退屈したのか、私と妹が話しているうちにどこかへ行ってしまいました。しばらくしてから祖母は、首巻きで頬かむりをして「やれやれ、大きな声で怒られた」と面会所へ戻ってきました。
どうしたことか、と間いてみると、
  「その向うに松かさがようけ落ちているけえ、拾いよったら、コラッ、コラッと大きな声がするけえ、子供か誰かに言うとるんじゃろうぜ、と思うて一生懸命拾いよったら、白衣の人がそばへきて、コラッ、何しとるんか。ここは職員区域じゃけん来たらいかんじゃないか、と怒られたんで、とんで戻ってきたんじや、うちの方じゃったら、よその山の栗を背負うほど拾うてきても怒る者はおらんのに、松かさぐらいで怒られたのはワシャ生まれて初めてじゃ。これから寒いときに面会に来るときは、先に炭を送ってから来にゃいかんのう」
 と、私たちに驚いて話しました。たぶん職員の方が、患者と間違えて注意したものと思いますが、当時はたとえ面会人でもそんな有様であったのです。それに懲りたのか、祖母たちは月遅れの節句がすむ頃に、決まって会いに来てくれていましたが、それも年と共に遠ざかり、祖母の腰もくの字のように曲ってしまいました。面会に来たときなども、少し歩いては腰をのばし、また歩いてはのばす状態なので、
  「おばあちゃん、腰が痛いんな」
 というと、
  「痛うはないが、誰かお金でも落としていたら拾うのに早いがのう」
 と笑うのでした。私が苦労ばかりかけるので、無理がたたったのではないかと、そんな祖母がいとしくてなりませんでした。
  「ふみや、ワシもまだまだ会いに来られると思うとったが、やっぱり齢にゃ勝てん。汽車の乗り降りが危のうなって、もうたびたびは来られんような気がするけえ、今度は一週間くらい居って、お前に好きな物を作って、食べさそうと思うてきたんじゃ」
 と、しみじみ言うのでした。ちょうど島のつつじも満開でしたので、弁当を持って眺めのよい「馬の背」で、一日ふるさとのことや昔の思い出を、泣いたり笑ったりしながら話しだのが、祖母との最後の別れとなったのでした。その後妹からの便りによると、祖母はいつも元気だ、変りない、と書いてきましたが、あるときの手紙によると、ちょっとした食あたりが原因になり、10日ばかりのわずらいで亡くなってしまったとのことでした。
 祖母の思い出はつきませんが、毎朝写真に向い、妹家族の仕合せと健康を守って下さいとお祈りし、今日も親しい方からいただいたぼた餅を供え、在りし日の祖母を偲びながら、私は今日も杖と共に生きているのです。“墓に布団は着せられず”と言いますが、生前苦労ばかりかけ、何一つ報いることのできなかった私が、年金を頂いているお蔭で、祖母の石碑を作ってあげることができたのは、せめてもの慰めであり、祖母への手向けだと思っています。

  




「わたしはここに生きた」大島青松園盲人会発行
昭和59年1月20日 発行


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