わたしはここに生きた   <盲人会五十年史> 国立療養所大島青松園盲人会五十年史

                   本書をハンセン病盲人に愛と理解を寄せられた多くの人々に捧げる

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第2部 「灯台」の群像

 第4章 生きる

 43 眉の植毛          東 條 康 江

私は昨年の秋、駿河療養所で眉の植毛手術をしていただきました。これ迄に当園では8名の人達が駿河で植毛手術を受け、皆きれいに眉が生えていると聞かされ、私も数字前から手術を受けたいと願っていましたが、その思いがいっそう強まり、自治会を通じて手続を取っておりました。しかし、植毛手術は一時中断されており、何時手術を受けられるか判らず半ばあきらめにも似た気持で過していた折、9月28日迄に来る様にとの連絡をその数日前に受け、あわただしく寝巻、下着などを取揃え、27日に島を発ち夜行列車で静岡に向いました。翌朝、沼津駅が近くなり、私達が降りる準備をしていると、前の座席に居た人が 「旱くしないと間に合いませんよ」と、私を後から支えて、ホームに降ろして呉れましたが、旅先での人の親切は嬉しいものです。岩波行に乗るには1時間程あり、ホームのベンチに腰を下ろし、澄んだ空気を胸一杯吸って、静岡まで来たのだなあーと感無量でした。盲人の身でここまで来るには、いろいろな障害がありました。
 先ず同行してもらう夫を説得する事、滞在中いてもらえるかどうか、殊に釣り好きの夫は、40日近くも釣りのシーズンを駿河の山で過ごすことは苦痛であろうから、私を連れて行き、1週間程滞在した後島へ帰り、また迎えに来るということで承諾してもらったことなど、感慨にふけっているうちにホームは通勤通学の人達で、随分にぎやかになり、私たちも電車に乗り込み、間もなく岩波駅に着くと、かねて連結しお願いしていた、大日向さん、白鳥さんたちが出迎えに来て下さっており、用意されていた車で一緒に、9時過ぎに駿河療養所分館横に着きました。早速、分館へ行き、手続きをすませ、病棟の婦長さんや、入園者事務所へも挨拶をすませ大日向さんのお宅へくつろがせて頂きました。そして其の日の午後、植毛して下さる金刺先生が治療棟で会って下さるとの連絡を受け、私たちは先生をお待たせしないように、少し早目に治療棟に出かけました。間もなく先生がお見えになり挨拶しますと、先生は、「不自由な身で駿河くんだりまで良く来たね、私は駿河の人と他所の患者さんとの区別は持っていません。どこの療養所の方でも良くなってくれれば、私も嬉しいのです」と、話されました。その言葉の中からも先生のお人柄が伺われました。かねて友人から聞いてはいましたが、直接お目にかかって先生への信頼感を一層深くしたのでした。
 明日、いよいよ1回目の手術を受けるのでその夜、大日向さんと一緒に入浴し、洗髪してもらい私は病棟へ入り、夫は収容所で休む事になりました。翌29日私は理髪場に行き、手術のさい、切り取る後頭部の髪をつんでもらいました。午後1時半から、手術が行なわれるので少し早目に手術室へ入り、金刺先生に眉の形をメスで形取って頂いた後、私は手術台に上り、うつぶせになりました。右後頭部へ麻酔の注射がされ、手早く植毛に必要な部分を切り取り、その処置が終ると、あおむきになり植毛する部分に又麻酔が打たれ、すべての準備もととのい、先生は丹念に1本1本植毛をはじめられたが痛みは感じませんでした。手術は3時間を要しましたが、先生も看護婦さんもさぞお疲れになられた事でしょう。金刺先生は植毛するとき「1本ずつ祈る様な気持で植えるのですよ」と、さりげなく言われましたが、私たちに対し深い愛情を持っていて下さる先生に感謝の気持で手術時間を長いとは思いませんでした。無事1回目の手府が終って手術室を出ると夫と共に、大日向さんや、白鳥さんたちも外でずっと待っていて下さり、この人たちの友情にも胸の熱くなるのを覚えつつ付添われて病室へ帰りました。
 またたく間に1週間はすぎ、同行して呉れていた夫は島へ帰りました。この事は最初から約束していたことで、私は多少の不自由は覚悟していましたが、友人の暖い心遣いで不自由さを感じず、また病室の人たちとも友だちになって経過も順調でした。隣ベットのおばさんは弱視の方でしたが、よく面倒をみてくれました。このおばさんは亡くなられたご主人のことをよく聞かせてくれ「おじいさんは優しかった、あんたもご主人を大事にして上げなさいよ」と、何時も言われたものでした。思えば療養所で結婚した私たちは、20年間も共に暮らして来たわけですが、夫と離れて生活したのは今回がはじめてで、何時もけんかばかりしていますが、離れて暮らしてみると夫のありがたさが身にしみて感じられました。
 駿河の病棟にはシーツが上下共、備え付けてあり、毎週1回看護婦さんの手によって取り替えられます。その間にも汚れたときは、何時でも取替えてもらえます。それに看護助手さんが、週に1回小物の洗濯をしてくれました。床の掃除も研磨機で毎日曜日に磨いていますので安心して床に降りることが出来ます。私たちの場合、ベットから降りて上草履を探り、足にはかせるのですから、この点は非常に助かりました。それに、医務課長さんや、外科の先生も度々病棟を巡回されました。
 10月10日は、駿河の遠足日となっており、献立には、にぎりすしが組まれ、果物やキャラメルなどオヤツも出て、元気な人達は思い思いに芦の湖あたりまで遠出をしたり、盲人の人たちも駿河神社に出かけたりするそうです。私は大日向さんと弁当を持って近くの芝生へ出かけ、秋の日射しを全身に浴びて、讃美歌を歌い、聖書を読んでもらって、自然を造り支配し給う神様を讃美し、楽しい半日を過ごしました。
 10月20日には2回目の手術を受けますので、その朝再び夫が来て呉れました。「2回目は楽で居眠りが出来る程ですよ」と金刺先生が言って下さいましたが、1本1本祈るような思いで植えて下さる先生を思い、居眠りなどは申し訳なくて出来ないと自分に言い聞かせていました。先生は、若い看護婦さんや、手術を受けている私の気持をまぎらすように、テレビの話や世間話などして気を配って下さいました。
 2回目は、95本ずつ植えて頂き、前回のと合せて210本が片方の眉に植毛されたわけですが、その内の10パーセントほどは駄目になるのがあるそうです。2回目の術後も経過が良く、33日問滞在させて頂き、多くの方々の善意と愛に支えられて植毛手術が出来ましたことは、長年の願いでありましただけに、この上もない喜びです。
 眉毛は外見上も欠く事の出来ないものでありますし、汗を防ぎ、また洗髪の時にもお湯が目に入るのを防いでくれるなど、大切な役わりを持っています。神様は人間をお造りになったとき無駄なものは1つも造られておりません。盲人で遥々駿河へ行き植毛手術を受けたのは、私が第1号です。こうして盲人にも明るい道が開かれたのは、駿河自治会をはじめ先生方の深い御理解かあったればこそ実現出来たことです。先生方が何時までもお元気で、私たちのために植毛手術を続けて下さるよう心からお祈りするものです。

  




「わたしはここに生きた」大島青松園盲人会発行
昭和59年1月20日 発行


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