わたしはここに生きた   <盲人会五十年史> 国立療養所大島青松園盲人会五十年史

                   本書をハンセン病盲人に愛と理解を寄せられた多くの人々に捧げる

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第2部 「灯台」の群像

 第4章 生きる

 44 破傷風を患って          龍 尾 ひさし

 昨日は朝から体の調子が悪く、内科の往診を受けたが、
 「別に大したことはないと思う」
 という先生の言葉だった。しかし、なんとなく全身が重苦しく、動けなくなるような感じで不安になり、午後8時半の異常まわりの時、看護助手にわけを話して、外来当直の先生に容体を訴えてもらったが、先生は多分神経痛だろうということで、痛み止めをもらって来てくれた。私は、いつもの神経痛とは少し痛み具合が違うので、ちょっとためらったが、別にひどい熱も出ていないし、床に寝ていると痛みも感じなかったので、やはり先生の言われた通り、神経痛の一種かと思って、気のすすまないままに痛み止めを呑ましてもらった。
 そのうちに、いつの間にか眠っていたが、全身を何かでしめつけられているような圧迫感でたびたび目をさましては、また浅い眠りにおちていた。早く夜が明ければ………、と思ったが、次第に体の自由がきかなくなってくるような感じで、何かわけのわからぬ病気にかかっているのではないか、と不安が一層つのってきた。まだ夜明けまでには2、3時間ある。1月には珍らしく風もない物音1つしない静かな夜であった。看護助手に頼み、もう1度先生に往診してもらおうかと思ったが、この夜中に往診を頼んだりして、静かに休んでいる寮員たちを騒がしても気の毒なので、みんながいつも起き始める5時頃まで辛抱しようと思った。しかし、全身の痛みをこらえながら夜明けを待つのはとても長かった。
 ようやくあちこちで時計が5時を打ち始めたので、ホッとした思いでインターホンを押した。すぐ来てくれた看護助手に、昨夜薬を呑ませてもらってからの体の状態を話して、すぐ往診をお願いしてほしいと頼んだ。先生の来られる前にトイレに行っておこうと起してもらったが、私の体は、すでに全身の力がなくなり、何かに縛りつけられたように重たく、看護助手に支えられながら、やっとのことで歩くことが出来た。寝床に帰ると、とたんにネジが切れたように動かなくなってしまった。やがて寮の人たらが心配して集って来てくれたが、話す言葉も表情も別に変っていないのか、全身が動かなくなったと言っても、半信半疑で聞いていたようである。往診を頼みに行った看護助手が急いで帰って来て、そんな状態であれば病棟に入室してもらうから、ということで、当直の先生は来てくれなかった。私のことを心配して集まっていた人たちは、その言葉を聞いて、
 「往診にも来ず、看護婦にも見によこさないで、入室しろとは何ごとだ」
 と言って騒ぎ出した。私は、もし体を動かして悪い病気であると、取り返しのつかないことになるので、看護助手には気の毒だとは思ったが、もう一度先生に頼んでほしい、と再度行ってもらった。しかし、戻って来た看護助手の返事は同じようなことで、診察は入室してからするとのことだった。私はわりきれないものを感じ、今一度当直の先生と看護婦の名を確かめた。みんなは、このような重病人を担架で運んで行けるか、もう一度当直室のほうへ頼んで来てほしい、それでなければ直接電話をするから……、と言っているのを聞きながら、私の意識は、どこか遠くにいるような感じであった。友人たちが心配して、直接頼んでくれたのか、当直の先生に代って、いつも私が内科で診察を受けている西川先生が往診に来て下さる、という連結を受けた。やがて聞き覚えのある先生の声がし、診察されたが、病名は言ってくれず、すぐ病棟入室と言われて、あわただしく帰って行かれた。看護助手に入室準備をしてもらい、寮の人たちに見送られながら、静かに担架で運ばれた。
 病棟は朝食時で、急患の入室にとまどっているようであった。私は病棟にはいった安心からか、急に高熱を発し、けいれんがおそってきた。自分では意識が確かだと思っていたが、その日の昼頃個室に移された時はすでに昏睡状態であった。
 ふと気がつくと、私は、物音ひとつしない場所に投げ出されている感じがした。焼き付くようなのどの乾きを訴えると、誰かがそっと口をしめしてくれた。それからのちは、けいれんと昏睡をくり返し、小さな物音にも全身が引きつけられて苦しんだ。時計、インターホンの音、窓の光線も全部遮断して、人の足音にも気を配ってくれ、医師、看護婦以外は個室に立入りを禁じていた。そのことが分るまでは親しい友人たちの声もせず、側にいてくれるはずの看護婦を呼んでも返事がなく、自分一人が置き去りにされているようで、心細い思いであった。
 そして思いがけず、家族の面会が告げられた。待つほどもなく、ドアの向うで兄の声がし、先生が私の容体を話されていたようであったが、私には聞きとれなかった。近くに来た先生はいつもの大きな声で、兄に
 「心配ないです、恐ろしい病気ではありません。側へ寄って言葉をかけてあげて下さい」
 と言われた。兄やおじたちも、突然危篤の知らせを受けた上、先生より私の病名と容体をくわしく説明されてびっくりし、うろたえていたのか、いつもの声でなく、私の名前を呼んだ。私は返事をしようと思ったが声が出ず、わかった、という意味で頭をちょっと動かすのが精いっぱいだった。兄たちはしばらく私を見守っていたが、かなり重体とみてとったのか、一緒に来ていたおじとひそひそ話しながら病室の外に出て行った。
 私が担架で部屋から運ばれて来るとき、親しくしている山田さんが、家の方へ知らそうか、と言ってくれたが、大したこともないだろうと思い、2、3日様子を見て、もし容体が悪くなるようであれば知らせてもらうから……、と言っておいたのである。しかし、私の病名が破傷風で、急に意識もなくなってしまったので、山田さんがあわてて家の方へ知らせてくれたようである。ふと気がついて、面会に来てくれていた兄たちのことを尋ねると、山田さんは、
 「今の状態では別に心配することはない、と先生が言われたので、『またすぐ来るから』と言って、夕方の船で帰った」
 と言った。それを聞いて、何かこのまま肉親との別れになるのではないか、という思いが心をかすめた。
 その夜ふけ、再び容体が悪化し。意識もなくなり、当直の先生が出て来られ、もう1度家族に知らせておくように、と言われたそうである。そのように、私の意識は混沌としている間に、医局では治療、看護、予防など万全の策がとられ、当園ではめったに使うことのない破傷風の血清を、高松から大阪方面まで緊急に手配し、私のために真夜中に臨時に船を出して取り寄せてくれたという。
 こうして私の病気は2週間目頃から、やっと回復の兆しを見せ、その後は次第に良くなり、1か月目にはお粥がのどを通るようになった。だが予期しなかった後遺症が全身に残り、1人で歩けるまでには数か月もかかったが、自分で洗面やトイレに行けるようになった時は、言葉につくせない喜びであった。入室中の半年間をふり返ってみるとき、先生方をはじめ看護婦さんたちの献身的な治療と看護、また夜昼私のために寝食を忘れて附添ってくれた親しい友人たちの好意を思うとき、新しい命への歓喜を一層強く感じるのである。

  




「わたしはここに生きた」大島青松園盲人会発行
昭和59年1月20日 発行


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