わたしはここに生きた   <盲人会五十年史> 国立療養所大島青松園盲人会五十年史

                   本書をハンセン病盲人に愛と理解を寄せられた多くの人々に捧げる

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第2部 「灯台」の群像

 第4章 生きる

 51 病棟訪問          門 脇 花 子

盲人会の役員が、病棟に入室している会員を定期的に訪問するようになったのは、同じ境遇におかれている者同士の孤独をいやし、励まし合いになれば……との願いからであった。
 昭和29年当時から相次いで病棟が。更新築され、看護内容も職員化と共に次第に充実し、私が泊りこみで看護に当っていた頃とは比較にならない変りようである。しかし以前の病棟は玄関がスロープになっていて、靴のまま気軽に訪問することができたので、毎月交替で役員による病棟訪問が行なわれていた。ところが46年秋に現在の病棟が完成し、面会時間も午後3時から7時までに制約され、しかもスリッパに履きかえなければならなくなってしまった。私たち盲人は1人で訪問できにくくなったところへ、会員入室者からも役員の健康を気遣って、毎月来てくれなくても……という声が出てきたので、3ヵ月に一回世話係に付添ってもらい、夕食後2名の役員が病棟を訪問することになった。52年度も定例総会やひな祭親睦会などの行事が片付いたあと、理事会の席でその割りふりがあった.その結果、私は同じ寮の小島さんと組み、9月に行くように決まった。
 秋とは名ばかりの暑い日が続き、バテ気味の私は少々閉口していたが、小島さんと、何日に訪問しようか、いつにしようか、と話し合っていたところへ、会から19日に世話係を廻してくれるとの連絡があった。
 そして訪問の日も朝からかんかん照りの真夏を思わせるような暑さで、4時の夕食を済ませ、出かける支度にとりかかっていると、
 「小島さん、門脇さん、ぼっぼっ出かけんかね」
 と世話係の道代さんの声がした。
 「まあ、迎えにまで来てくれたの、私たち道代さんを急かしちゃいけないと思って、ちょっとゆっくりしてたのよ」
 出てきた小島さんも
 「すみませんね、じゃお願いします」
 「いつもあんたたちが早いので、今日は私が早めに出かけてきたのよ」
 と道代さんはさりげなく言いながら2人の手をとってくれた。舗装された道は麻痺した私の足にも熱気を感じるほどで、2人は理学療法科の脇から、コンケリートの廊下伝いで病陳の玄関に入った。道代さんは、
 「大勢訪問しているのかスリッパがない、どうする」
 「そう、仕方ないわね。ソックスのままで上ろうか」
 と靴をぬぐと、道代さんはすばやく下駄箱に私たちの靴を入れてくれた。
 まず玄関寄りの110号室に入り、
 「こんにちは。川崎のおばさん如何ですか、盲人会から来ましたけど。気分はどう?」
 「ありがとうな、いつもご苦労さん。新しい部屋へ退室してやっと馴れて喜んどったのに、また悪うなって……」
 「本当にね、新しいセンターヘ退室されたと聞いて私たちも喜んどったのに。今度の部屋は2間になっていてトイレもつき、誰にも気兼ねしなくてもよいし、早くよくなって下さいね」
 と言うと、そばから小島さんも道代さんもあいづちをうった。隣りべッドの森下さんは整形手術を受けておられ、経過も良好らしく、見えるだけにつぎつぎと話しかけてくる。その向い側には今井さんの奥さんも、足の関節に水がたまったとかで、ギプスを巻いて入室されていた。ちょうど来られていた会長の今井さんは、公務の疲れもみせず、道代さんと冗談をとばし、まるで盲人会の事務室のようであった。私たちは次の訪問もあるので、心を残して廊下を隔てた114号室へ入った。ここは2ベッドになっていて、西日が入り。30度を越えているのではないかと思った。
 「白石さん、近頃治療棟で会わないと思ってたら入室していたのね。どこが悪いの。こんなに暑くては、べッドの上も大変でしょう」
 「ちょっと腹の調子が悪かったけんどな、もうようなって近いうちに退室させてもらおうと思っとるんよ」
 小島さんも、
 「本当に早くよくなってよかったわね。今日は会の方から訪問にきたんやけど、私なんかこういう機会でないとよう来んのよ。申しわけないけど、何か言うことはありませんか」
 「ありがとう、別にないぜ。まだ暑いけんあんたらも体に気をつけてな、役員の皆さんにもよう言うといて。本当にご苦労さん」
 と、あベこベにねぎらって下さった。私は、
 「じゃ、また治療室でお会いしましょう。それではお大事に」
 と、部屋を出たが、楽しんでおられた相撲放送の邪魔をしたのではないかと思った。私たちはお隣りの113号室に行き、
 「行天さん、如何てすか その後目の方も変ったことありませんか」
と声をかけた。
 「ありがとう、大分よくなってな。ラジオを聴いたり、たまには散歩かたがた寮に帰って遊んできたりして、気の向いたようにさせてもろうとるんよ。目の方は相変わらずだけど、できれば少し視力のあるうちに開眼手術を受けたいと思うんだけと、それが……」と、言葉をにごされた。
 「そうよ、少しでも明りがあるうちに手術を受けると視力もかなり出るそうだから、希望をもって下さいね」
 と言うと、小島さんも、
 「本当に早く手術ができるように頑張ってね」
 と言った。早く健康を回復されて、元気だったとき園内の楽団で活躍されていた経験と若さによって、盲人会でも是非頑張ってほしいものだと願った。同じ北側に面していても、ここは4ベッドという部屋の広さと、すぐ横の非常口が開いているせいか案外涼しかった。ここでも要望はなく、私たちは向いの112号室の田原さんを訪ねた。ベッドに近寄ると、田原さんは小さな音量で相撲放送を聴いていた。
 「ちょっとお邪魔します。おじさん如何ですか、火傷で入室なさったことを聞いてね、心配してたのよ」
 「ああ、盲人会から来てくれたんやなあ、ご苦労さん。まだちょっと熱っぽいけど割に気分はええけんな」
 と言われたが、精神的にまいっているのを声から察した私は、
 「じゃあ早くよくなって、来月の盲人デーには自慢の喉をみんなに聞かせてね」
 と力づけるように言った。すると、
 「さあどうかなあ、ハハハハー」
 と笑い声も出て、明るい雰囲気になった。話し上手の小島さんはあれこれ話題を変えながら励ましていた。窓際のベッドには旧知の東江さんがおられ、足の方は一応よくなり、最近は糖尿病の治療に専念しているとのこと、その隣りべッドには足の整形手術を受けた橘さんもおられて、術後の経通が思わしくなく、1時はとても苦痛だったとのこと。橘さんとは10年余り同じ寮にいてお世話になっていたのに、1度もお見舞しなかったことを心から詫びた。
 道代さんを中に、私たちは中央廊下を通り、210号室にいった。入口で、
 「ご免下さい、盲人会から来ましたけど、どなたもお変りありませんか」
 と言葉をかけると、それぞれのベッドから返事があった。私は最初に兵江さんのベツドに寄ってゆき、
 「兵江さん、確か去年もこの頃お訪ねしたと思うけど、ちょうど1年ぶりで七夕さんみたいね。今日は気分がよさそうだけど、神経痛は少し楽なんじゃないの」
 「いまはちょっとましな方やけど、朝から痛み止めの注射を、うってもろうたり、頓服をのませてもろうたり、相変らずグズグズ言うとんよ。それはそうと花子さん、近頃市外電話の呼出しがさいさいかかりよるけど、お父さんやお母さんは元気なんかな」
 と尋ねられ、一瞬頬のこわばるのを覚えた。私はちょっと間を置いてから、
 「それがね、昨年の6月に父が亡くなり、8月には母も父のもとに逝ってしまって、とうとう1人ぼっちになったの。終戦の翌年一時帰省してから30年も会っていないからね、今だに実感が湧かないのよ。でも両親をみてくれた親類の人がね、それがきっかけでいろいろ様子を知らせてくれたり、仲良しだった同級生や、そこのおばさんや、母の従兄弟に当る人も懐しい声を聞かせてくれて、本当に夢でもみているような気持なんよ」
 じっと聞いていた兵江さんは、
 「それは寂しうなったなあ。けど親戚の人や、友だちが電話をくれる位やから、お母さんたちもようみてもらわれたやろけん、あんたも元気を出してな」
 と慰めて下さった。兵江さんも入園当時は手足がよく、包布つけや不自由寮の看護などどんな作業でもしていたのに、目を悪くされて不自由寮に移られ、私も病状の悪化で兵江さんと同じ寮で5年程生活を共にした間柄である。兵江さんは余程気分がよかったのか昔話に花が咲いたが、小島さんと交付して福家さんのベッドに寄っていった。
 「朝晩だけでも凌ぎよくなって少しは楽になったでしょ。おいしいものでも食べて、みんなとおしゃべりでもなさったら気が晴れるわよ」
 「まあ、いつも訪ねてもろうてすみません。つい癖で横になっとるけど、お蔭さんで気分もええし、食べるものもおいしいんよ、今日は特別暑かったな」
 と言われた。福家さんも軽症で、私たちのいる不自由寮へもたびたび看護に来て下さっていたが、水が合わなかったのか健康を害し、とうとう失明してしまわれた。しかし穏やかな人柄で、暗いかげなど感じさせない。すると待ちかねていたように、すぐ横から北山さんが、
 「花子さん元気でええなあ。うちは神経痛で不白由になって、おっさんには先に逝かれるし、辛かったけんど、看護婦さんや藤岡さんがようしてくれるけん、ありがたいことよ、それに今日、船遊びに連れていってもろたんよ、目は見えんでもそりゃよかったわ。婦長さんが車椅子に乗せて行ってくれてな、もう嬉しゅうて、うれしゅうて」
 と言うのを聞いて、
 「まあ、それはよかったわね。たとえ見えなくても気分転換になるから、来年も是非行けるように頑張ってね。私も外出は出来ないものと諦めてたけど、盲人会のバスレクに行くようになって3年前には壺阪寺の里帰りにもいかせてもらってね、泊りがけの旅も、新幹線や観光バスに乗ったのも初めてだったのよ。北山さんも島に来られた頃のように歩けたらいっしょに行けるのにね」
 と、お互いに喜びを分ち合った。会員同志の気安さで時の経つのも忘れて話しこんでいたが、時間が気になり、
 「それでは、皆さんお大事に」
 と部屋を出た。廊下の向い側には元会員だった浅野さんが夫婦で入室なさっており、ドアが開いていたので、入口でお見舞いを言った。
 そして205号室の田頭さんを訪ねたがいなかったので、203号室の福家孝志さんをおとずれた。
 「如何ですか、孝志さん。開眼手術を受けられたらしいけど、杖を持たすに歩いているようだから経過はいいのね。それから神経痛の方はどうなの」
 「そうやなあ、時々痛み止めは服んどるよ。視力は手術前よりずうっとよくなっているけど、僕の場合くもりがなかなかとれんのや」
 と屈託のない声で笑った。
 「でもよかったわね。折角とり戻した視力だから大事にしてね。そのうちにきっと曇りもとれると思うわ」
 すると小島さんも、
 「そうね、もう少し日にちが経てばもっと視力が出るんじゃないかしら」
 と言った。そこへ隣りのベッドから声をかけて下さったのは、小島さんと同郷の岡谷さんだった。岡谷さんは激しい神経痛で、手足の機能も殆ど奪われ、口も悪くなっているのか話す声が変っていた。いっしょに入園されたという小島さんとは思い出話がつきないようであった。私も神経痛で顔面麻痺と診断されたのは確か44年頃で、最初は首のあたりがしびれ、頭は何かを被せて押さえつけられた感じになり、顔もこわばって息苦しい毎日がつづき、歩行にも事欠くようになった。痛み止めの薬も注射も効き目がなく、超短波や低周波などの電気治療も効果があらわれなかった。ところが針治療を受けるようになっていくらか苦痛はやわらぎ、たまには気分のよい日にも恵まれるようになったことなど、思い出すままに話した。しばらく待っていたが田頭さんは帰ってこず、私たちは伝言を残して病棟を出た。
 第2治療陳を出たところで道代さんと別れ、秋のおとずれを告げるかのように草むらで鳴く美しい虫の声を聞きながら、小島さんと帰る杖音は軽かった。

  




「わたしはここに生きた」大島青松園盲人会発行
昭和59年1月20日 発行


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