第九章 貧困からの浮上
21 不自由者看護 職員への切替え(昭和33~39年)
35年暮から長屋風ながら、一夫婦一室の夫婦寮の新改築がすすめられてきた。夫婦寮の新設とともに独身寮ができてくる訳だが、独身寮は定員が減っただけで相変らず24畳の大部屋に9名、21畳に8名の雑居生活のまま、部屋いっぱいふとんを拡げたザコ寝であるから、自分の趣味、趣向に合った生活などのぞむべくもなく、ちよっとしたことでトラブルが起こりがちであった。
当然、独身者から個室をのぞむ声が出た。29年、自治会は整備計画の中で6畳個室の独身寮を考えていたが、具体的に案を練りなおしてみると、6畳個室では現在員が納まらないことが分った。それでは外に敷地があるかと見ても、そんな空地は見あたらない。結局、24畳の大部屋を12畳の2部屋にするより他に方策はなかった。しかも12畳の部屋に4名も入れなければあばききれなかった。それも予算の関係で改造である。12畳に4名だからプライバシーなど問題にならないのだが、それでも次善の策としてよろこんだ。
最初の改造は37から40寮の2棟、45から48寮の2棟、計4棟で32年10月の着工だった。しかし独身寮の改造は、第一次独身重不自由者センターヘの改築、第二次独身重不自由者センター、夫婦重不自由者センターの新築などで予定よりずっと遅れた。ただし年代が下るにつれて8畳に2名、6畳の個室、4畳の個室としだいに個室化 へ向かった。最後の改造が完成したのは44年初夏のことだった。
戦後、入園者の意識を変えさせたのは、プロミンの出現と予防法闘争、そして年金受給といえるだろう。
その年金受給の口火を切ったのは盲人会であった。盲人会は全盲連(全国ハンセン氏病盲人連合会)本部の指示によって、早くから請願書を関係方面に提出するなど運動を進めていた。他の会員は、執行部が何もしていないのになにをやっとるんだと、盲人会の運動を横目で眺めていた。
自治会が年金問題ととりくみだしたのは、改正国民年金法が制定された34年からだった。
盲人会が請願のなかで言っているように、らいには垂手、垂足、らい性麻痺などの特殊症状があるうえに、単独の障害というのはほとんどない。盲目のうえに、垂足、手指、足の切断など二重あるいは三重の障害を持った者が多い。だから ①法の精神にもとづき、日常生活に支障をもたらす綜合障害をもって、幅ひろく適用すること ②外国人療養者(1級症状該当者、高齢者)の援護措置については、本省で年金に準じた支給金の予算措置を講ずること ③年金の支給に当っては他の給与金の調整が行なわれないように注意を払うこと、というのが全患協および自治会の運動方針だった。
障害認定の診察は、徳大整形医の応援を得て9月までに終わった。障害認定申請者は263名だった。ところがこのうち105名が保留になった。どういう認定基準の読み方をしたのか、それとも障害認定書の書き方が悪かったのか、裁定になった者より保留になった者の方が明らかに不自由度が高い者が多い。これでは黙っておれない。保留になった者が促進委員会をつくり、園長に会わせてくれ、と執行部に申しこんだ。執行部は評議員会から3名、寮長会から2名を選出し年金対策委員会を設け、4月11日、園長と会見、熱のこもったやりとりで興奮した園長は、県社会保険局に提訴も辞さない覚悟である、と言明するほどだった。
この問題は香川県認定医が開業のため交替した事、年金局の下河辺技官が来県して、らいの福祉年金については「審査委員会」(瀬戸内三園の医師で構成)の意見を尊重する旨を、県の年全課と新任の県認定医に申しいれてけりがついた。この間、自治会の年金対策委員会を中心にして県および厚生省の関係者へ請願書やはがき陳情をしたことはいうまでもない。
障害認定申請書が県に提出されたころ、自治会は、年金受給者には自治会負担の互助金を支給しないことを評議員会で決定した(34年10月8日)。入園者の所得格差がひろがることが憂慮されたからである。認定基準ギリギリの障害をもった者、ボーダーラインにいる不自由者で認定から洩れた者、一級障害をもっていても高齢のため、あるいは外国人である故に年金から見放された者もいた。これらの者に対するせめてもの申し訳であった。
自治会の憂慮は35年2月から障害福祉年金(月額1500円)が支給されはじめてから現実の問題となりはじめた。園内作業をしても生活保護基準より下回っていた。先にあげた作業のできないボーダーライン層の者や、高齢者、外国人はいっそうの惨めさを昧わった。この人たちの収入は療養慰安金500円、不自由者慰安金250円、それに自治会からの互助金120円で計870円、これが日用品費である。煙草も相変らず富貴煙にたよらなければならなかった。年金支給日には同室にいても話もできなかった。最初に不満を口にしだしたのは軽症者だった。働いても働いても年金受給者の収入に追いつきかねるのだから無理もない。「お前たちも日本人だ、日本人だいうて連れてきておきながら、こんどはお前は朝鮮人だからいうて差別するんだから……」とは韓国出身、盲目の女性の声。「言葉について兎や角いわれるのには馴れていたつもりだったが、あの時はこたえたね。日本に帰化することを考えつき、執行部から六法全書を借りてきて調べたりケースワーカーに訊いたりしてね。そしたらこんな施設に入っとる者は帰化はできないという事でね。大島には朝鮮人は少ないだろう、心細くてね。長島や邑久の友達のところへよく相談に行ったよ」。おなじ韓国出身の男性、一級障害者の言である。
自治会は高齢者、外国人の一級障害者に対して年金に準ずる予算措置を講ずることを要望した請願書、おなじ趣旨の署名を会員に求めて差別廃止、格差縮少の運動をすすめた(35年7月4日)。もちろん全患協も会員の所得格差を大きな問題として捉え猛運動を重ねた結果、37年度に省内操作による不自由者特別慰安全500円を出させることに成功、また42年度には1000円に増額された。しかし、42年度から拠出制障害年金が受給できるようになり、所得格差は更に大きくなり園内の空気はいっそうギスギスしたものになった。
年金受給者以外の者には療養慰安金があり、全患協を中心にした運動で物価上昇に似合った増額をみたが年金との開きは大きくなるばかり、軽症者の中には労務外出する者も出てきたが、定期便船で通わねばならぬこと、手職をもたないので肉体労働に限定されるなどで長つづきしなかった。
その後、日用品費と特別措置を要求した、ながい粘りづよい運動で46年4月から自用費方式(日用品費、衣料費、寝具費を綜合した費用)がとられ、障害年金と同額の給与金が非年金受給者に、老令福祉年金受給者には障害年金との差額が支給されるようになり、園内は再び平和をとり戻し、精神的にもかつてないゆとりが生じてきた。
不自由者看護作業をなかば強制的に割当てねばならなくなったことは前に触れた。これにはプロミン治療によって、わかい軽症者が菌陰性になり社会復帰していったことが背景にあった。その後もボツボツだが社会復帰する者がふえてゆき、看護作業者がしだいに得難くなっていた。その作業者難を相愛互助論でやっとカバーしていたのが大島の状況だった。
こうなると作業者の言い分がつよくなり、盲人が多い部屋はとかく敬遠されがち、作業の割当係も頭痛の種になっていた。このことは看護をうける不自由者にはね返り、遠慮気がねが大きくなる。不自由者の早飯はいまでも有名だが、当時の後遺症で遠慮のかたまりである。不自由寮によっては、作業人に迎合して他の者がフォーク(箸代り)を離していないのに、箒を手にして同僚の食事が終わるのを侍つ者もいた。食事のあと片づけを手伝おうというのである。生きている楽しみの中で大きな分野を占める食事がこれである。かなしい図柄であるが、これも作業者難からきた現象である。
大島はこうした状況だったが、陸つづきの多磨支部はすぐ近くに大都会を控えているだけに、社会復帰者も多く労務外出する者も多かった。それだけ看護作業に早く手づまりがきたのであろう、不自由者看護を職員に切替る運動は多磨から起こった。重症者看護が看護婦の手に返還されたとき、患者が患者を看護するという形態、不自由者看護もその一つであるが、いずれ返還されるべき作業であった。
多磨の要求は全支部の問題でもあるので、全患協で取りあげられ厚生省へ突きつけられた。その結果、35年に多磨と栗生で職員への切替えが一部行なわれた。
大島は整備が間に合わなかったせいもあるが、2年遅れて37年10月に独身特別重不自由寮(持重)の50、51寮、1寮が12畳の2室、1室3名で計12名に看護助手12名で、ついで12月には持重の夫婦寮である64寮、4室、4組の夫婦計8名に看護助手5名をつけて切替えられた。
持重とは失明のうえに四肢の切断など二重、三重の障害があり、衣服の着替えにも人手を要する人たちである。患者作業では住みこみで介護していた。この人たちは、看護切替えが目前に迫ったとき反対の声をあげた。それは壮健さんに一日中、自分の姿をさらさなければならない苦痛と、嫌悪されるかも知れない不安、おびえから出た声だった。が、実施に踏みきってみると、それは単なる思い過しにすぎず、患者作業者にはない別な気楽さがあった。その後不安の声は聞かれなかった。
39年1月、独身重不自由寮2棟、食堂、浴場付き、32名の看護が職員に切替えられた。看護助手の補充が間に合わず、該当寮員の抵抗はあったが夫婦持重が3名の看護助手に、独身持重は10名に減らされ、減らされた看護助手は独身重不自由寮にまわし、婦長を含む7名の看護助手で介護に当ることになった。
看護助手について全患協は、特重に看護助手1名、重不自由者2名に1名(後に重不自由者以上の患者2名に1名に改める)中不自由者4名に1名、軽不自由者8名に1名の線をうち出し「安易な妥協を排し、非常勤でなく、職員の定員の線はぜひ確保してほしい」という希望意見をつけていた。これに対し厚生省は、11療養所の不自由者看護を看護助手250名で、5ヵ年計画で切替えるとしていた。厚生省案でいくと、1療養所の不自由者看護をわずか23名ですますということになる。管理者である園長が驚くほどずさんな計画である。
大島はやっと独身重不自由者の看護切替えが終わったばかりで、あとに夫婦重不自由者、独身中、軽不自由者、夫婦中、軽不自由者が手つかずで残っているというのに、厚生省がいう5ヵ年計画(開始は栗生、多磨の35年)は40年で終了だという。39年6月5日、全患協をあげて不自由者看護完全実施を要求して運動に起ちあがった。いわゆる六・五闘争と呼ばれている闘争である。大島では切替えが遅れているだけに、予防法闘争とちがって最初から会員の足並みがそろった。
本部へは3名の代表を送り、決起大会、今後の看護切替えの含みをもたせた看護作業放棄も整然と行なわれた。放棄した・看護作業は職員の奥さん方によって代行されたが、予防法闘争のときのように珍らしがりもせず、ごく自然に受けいれ島外から雇い入れられないのを残念がった。8日には盲人会、不自由者会の会員約90名が、園長の上京、厚生省陳情を要求して、午前8時より本館前に座りこみを行なった。曇り日でうすら寒い朝だったがみんな意気ごみ元気いっぱいだ。不自由なので本館まできたのは初めての者が多い。中には玄関に入って内部をのぞきにゆく者もある。が、大部分の者は軽症者が敷いてくれたゴザに座りこんでいる。午前9時半園長と会見、長島で行なわれる西部所長会議後上京するという回答を得て10時に解散した。
中央交渉団は厚生省に座りこみを決行、退去命令が出されるなど、厳しい圧迫をはねのけ、日患同盟、全医労、全生連、全厚生、社保協など友好団体の協力を得て折衝をつづけ、ついに大臣にこれまでの要求を認めさせ、今後は5ヵ年計画などといわず急ピッチで進める、という言質を得ることができた。
しかし、この闘争後も職員への看護切替えは、総定員法による定員削減も影響して遅々として進まなかった。40年8月には、看護作業者引揚日限を通告して、しぶる園当局を追い込み、夫婦重不自由寮2棟の切替えを実施させたこともあった(11月1日切替)。
その後の看護切替えも他園より遅れ、最後の夫婦軽不自由寮の切替えは50年2月になった。大島の看護切替えのおくれは、住宅整備のおくれもあったが、不自由者の代表が、看護内容を低下させないよう、全患協が看護助手数について打出した線を忠実に守れと執行部を突き上げたことも原因をなしていた。しかし、中央の多磨が早くから多磨医師団案に妥協していたので、最後には折れざるを得なかった。
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