閉ざされた島の昭和史   国立療養所大島青松園 入園者自治会五十年史

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終章
 島の明日

 22 交流の季節(昭和43~55年)

 クリーム色の車体、裾と上部がブルーに彩どられた大型バスが届けられた。43年9月、藤楓協会(自転車振興会および四国四県よりの寄金)より里帰り用として贈られた大型バスである。38人乗りトイレ付き、自治会が会員から募集して「やしま号」と名づけた。この年の11月7日から秋のバスレクレーション(略称バスレク)、五色台、坂出市常盤公園コース行きから使用されはじめた。初期は四国四県のみという制限つきで、バスレク、里帰りに使用された。
 大島の最初のバス(ジープを改造したもの)レクレーションは28年春の少年、少女の遠足だった。コースは琴平、栗林公園、高松市内見学だった。自治会は少年、少女を大切にしすべてに優先権を与えてきたが、園でも彼らが軽症なので大目に見て簡単に許可を出した。23年から長島、邑久を船で訪問しあう友園交歓がはじまったが少年、少女が初回、庵治町の竹居観音や志度の小田岬、高島などを巡る船旅もトップの順を与えられた。
 一般会員のバスレクは38年6月15日から開始された。少年、少女の遠足から10年、プロミン治療開始から15年になる。入園者の80%は無菌になっていた。
 38年の新執行部は就任早々バスレクの問題に取組んだ。おなじ瀬戸内の長島、邑久もバスレクを行なっていたからである。執行部は他園よりきびしい外出制限の非をあげ、バスレクの実現を迫った。園幹部は、島であるためバス購入の予算が取れないこと、交通地獄の今日、バスレクなどとても許可できない、とにべもない回答だった。実は少年、少女が使用した車は米軍から貸与されたジープを改造したもので、公式には乗用車として認められていなかったのである。車が無いことは事実だが、バスの予算を取ろうとしなかったことも事実だった。執行部は車が無いならその予算を取るべきだと強く申しこみ、県出身の代議士に助力方を依頼した。
 その後の交渉で適当な上陸地点が無いことが問題になっていることが分った。そこで庵治町出身の職員と一緒に上陸地点を物色し、執行部と園長、幹部職員で現地調査に出かけた。上陸地点は人目につかない場所として、最初に大島に近い屋島の突端、長崎の鼻を調査したが上陸地点から道路までけわしい崖があり、その距離は約100米もあるので入園者には無理、つぎの候補地に向かった。庵治町のフキヤソウという浜である。そこは砂浜だし、きれいな松林もあって人目をさけるには絶好の場所である。道路までの坂はきつくないし距離も近い。上陸地点はフキヤソウの浜に決定された。
 車は自治会の立替え払いで6月に着いた。11人乗りの小型バス、車内改装で暇どり6月15日から開始された。
 参加者は15年以上一時帰省したことのない者183名の中から希望者を募り72名、それを8名ずつに分け9班に編成した。行き先は満濃池、琴平、多度津桃陵公園、高松で買物、そのあと屋島にのぼって高松の夜景を眺望して21時30分大島着という目いっぱいのスケジュールだった。バスレクから戻った者は「社会ではまだ田植えをしとったよ。それを見ると懐かしかったなあ、今日のバスレクはほんとによかったよ」まるで新発見でもしたように報告していた。
 バスレクは日を追うにしたがって暑くなったので5回で中止し、残りの者は秋に回された。この記念すべき年は、アメリカの通信衛星で初の日米テレビ中継、ケネデイ大統領の暗殺を速報した年で、東京オリンピックの前の年だった。
 バスレクは毎年、春秋2回ずつ行なわれることになったが、これまでの小型バスではハカがゆかないので40年6月から菌陰性者だけという条件つきで琴電、大川の大型バスを借り切り小型バスとの二本立、行動範囲も拡がり徳島から高知の桂浜へも行くようになった。こういう状況の時、やしま号が贈られた。早速やしま号に切替え四国四県の見学が無料でできるようになった。
 41年から、天理教本部が入園者の宿泊所を追ってくれたので、大島からも団体参拝(略称、団参)がはじまったが42年から大川バスを借り切り団体参拝を行なった。43年にはやしま号が入ったのであるが、使用範囲は四国四県の寄金だということで、律義にも四国四県だけに限定されていたのでやしま号は使用できず、そのまま大川バスを利用していた。
 45年4月、天理教本部への団参と一緒に万国博見学をした。いのちあるうちにテレビで見た万国博を自分の目で見ておきたい、そんな希いからこれまで団参に参加したことのない者も加わった。1回目の者は「ガイドさんがやさしゅうしてくれてのぉ、わしの体を支えて乗り降りさせてくれるんじゃ。わしはこれで思い残すことはないと思うたよ」とはじめての本部参りの喜びを語っていた。ところが2回目になって「車は出せない」と貸切りを断わってきた。このまま黙っていては一般バスの利用はできなくなるとみて、県会議員の小河氏の応援を得て自治会会長が抗議に出かけた。元もと大川バスを利用できるようになったのは社長との成約のうえであった。それで話合いは労働組合幹部との間で行なわれた。組合側の反対主旨は
 一、らいの伝染性を恐れておる。ために乗務員が乗車を拒否して車を動かすことができない。
 ニ、一回目は園の責任者が同行していないため、運転手が諸交渉を行なわなければならず負担が大きかった。
 というものであった。小河議員の口添えもあり2回目も車を出すことになった。
 こちらにも手落はあったが、これまで3年間も園の責任者の同乗なしでやってきたことなので、入園者は(一)のらいに対する恐怖心の方へ注目し、近代的感覚をもっている筈の労働組合員にしてこの程度か―と今更のように啓蒙活動の不足を思い知らされた。天理教団参はバス会社を替え行なってきたが、53年からやしま号に切り替えた。
 里帰りは大島では41年10月、大阪府出身者からはじまったが、四国四県はおくれて45年からはじまりやしま号が大活躍した。里帰りで困るのは宿泊所がないことである。県主催の行事だからハンセン氏病を標傍しなければならず、すれば断わられるというケースが多い。55年のバスレクから身体障害者の団体と称して、ホテルを宿泊所としている。いつの日、詐称せずにすむ日が来るのか、結局は自治会自身が園職員の応援を得ながら道を拓いてゆくよりほかはないであろう。
 「ハーイ、今日はー、さざ波新聞をもってきました。読んで下さい」
 赤いTシャツにジーパン姿のはちきれるような女子学生である。いつも目にしている白衣とちがって赤いTシャツが輝いて見える。胸の小さなふくらみも可憐だ。
 「いつもご苦労さんだね。どれどれ、ウーン、今日のはだぶって読みにくいね。すまんがあんた読んでやって・・・」
 さざ波新聞は学生たちが作ったものでがり版刷り、その日の作業の模様や自己紹介、ちよっとした感想などが書かれている。新聞は読みにくくても読めないことはないのだが、若者を傍にひきとめておきたい、若い娘に甘えてみたいからわざとそう言ってみるのだ。若者は嬉々として読んでくれる。それは孫の声であり、娘の声であり、そして恋人の声でもある。
 「どうも有難う。今晩、夕食がすんだら友達を連れてきてよ。一緒にお茶でも飲みながら話したいね」
 「いいんですか。それなら遊びに寄らせてもらいますから―」
 その晩は若者たちと雑談、はなやかで賑やかで、お客をよんだお祭の夜のようである。また、いつも夢みている一家の団らんのようでもある。珍らしいことであるが中にはふる里の訛りをそのまま持った学生がおり、それを聞くのがなつかしく嬉しい。新聞を配ってくる訪問を学生たちは「家庭訪問」と呼んでいる。夫婦寮ならいいが独身寮だと異様にひびく。が、考えてみると廊下つづきではあるが、それぞれ一国一城の主である。ひとり暮しの家庭とみる見方もあるのか、と子に教えられたような気もする。
 毎年、夏休みの時季になると、学生たちがそれぞれ若者らしいはなやかな服装で、ボストンバックやリュックをさげてワークキャンプにやってくる。ワークのゆき帰りに出会うと「お早ようございます」「今日は―」とはじけるような声で挨拶をしてくれる。こちらまで若返るようで心がはずんでくる。誰かが園内にきらめく若さを運んでくる、と詩っていたがまさにその通りである。作業は散歩道である山道の補修や草刈り、盲導索のサビ落し、その塗り替え、重病棟の網戸の掃除などなどである。55年は自治会創立当時の「相愛の碑」の移動が大きな作業だった。
 ワークキャンパーを迎えるのは、自治会執行部の大きな負擔になっている。が、キャンパーたちを迎えるのがハンセン氏病の啓蒙運動の最たるものとして受けとめ、できるだけ大勢のキャンパーを受けいれるよう努力している。キャンパーたちが異口同音に口にするのは「園内がきれいで意外に皆さんが明るいのにおどろきます」という言葉であ る。これはキャンパーたちが来島前に、映画、小説、父母の話などで暗いイメージを抱いていたことを思わせる。もちろん中には身障施設の訪問とおなじと思っている者もあるにはあるが―。意外に明るいという印象、これだけでも一歩前進である。
 大島での最初のワークキャンパーの受けいれは38年8月、大阪のいもづる会員の25名である。このいもづる会は後に「いもづる祭」とよぶ夜店を開いてくれ(49年8月14日)このところ夏の風物詩として恒例の催し物となっている(別項参照)。ついで40年12月にFIWC(フレンズ国際労働キャンプ)関西委員会を迎えた。このFIWC関西委員会は、奈良に入園者が気がねなく泊れる家「交流の家」を造ってくれた。交流の家を造るにあたって地元の猛烈な反対があったが、地道な話し合い運動を重ねて家造りを成功させてくれた。(42年7月30日)この年には神戸学生キリスト者連盟も加わり、この後キャンパーの来園は次第にふえてきた。55年の来園はFIWC広島、関西、北九州の合同委員会の約30名、いもづる会、いばらの冠会28名、天理教京都学生会OB10名、京都カトリック青年会20名、伏見カトリック教会青年会12名、天理教京都学生会20名、大阪清風寺青年会46名、キャンパー以外だが県内の天理教ひのきしん会150名を迎えた。
 船の別れはつらくさびしい。ロングキャンプともなればなおさらだ。見送りに出る入園者も多い。「家庭訪問」で親しくなったキャンパーは入園者の曲った指の手をとり別れの言葉を交わす。「ほんとにお世話になりました。お元気でね」「あんたこそ元気でまた来てね。お父さん、お母さんにもよろしくね」「きっとまた来ます。体に気をつけて下さいね」多感な若者のまぶたがキラリと光る。おもわず胸がじ―んとなって声が出ない。船は桟橋をはなれ向きを変える。キャンパーたちは見送りの者が見える側にまわってきて手を、ハンカチを振る。何かを叫んでいるようだ。ふとわれに返ると急に暑さがおそってくるが、足は思うように進まない。誰もが黙もくと足を運ぶ。彼らが偏見のない社会をつくり出してくれるのを胸に描きながら足を運ぶ。そして元の静かな島が返ってくる。

  

「閉ざされた島の昭和史」大島青松園入所者自治会発行
昭和56年12月8日 3版発行


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