それぞれの歩み
自治会事業のこと
養鶏(大3年12月 1914年)
自治会の創立以前、その母胎であった娯楽会が成立(大3年11月)した時、個人が飼っていたのを同会の経営にした。しかし当時は卵を1日に3個娯楽会へ納入すれば、あとは飼育人の収入になっていたので、娯楽会の維持費にはならなかった。自治会発足(昭6年)とともに経営を合理化して、卵は施設に買ってもらい、病棟の重症者の滋養物として支給していた。
卵は1個2銭(昭6年)で、それ以前は1銭であった。以後、3銭(昭15年)、10銭(昭21年)、25銭(昭22年)、2円80銭(昭24年)となっている。鶏肉は百匁(375g)25銭(昭12年)、同30銭(昭15年)。鶏肉も施設に買ってもらい、副食に使用し、年末には希望者に販売したり、入園者全員に慰安配給(無料)していた。施設には卵も肉も市価の半値で提出していた。昭11年度の収支は次のようになっている。
収入406円 部費292円 純利114円。
当時は約300羽飼育していたが、多い時には500羽を超えた。戦時中や戦後の食糧難時代には、卵は貴重品扱いされ、重症者の栄養源になった。しかし時代の流れとともに赤字つづきとなり、昭和28年2月に廃止した。当時の鶏舎三棟は北の山裾に、今も廃屋となって残っている。
売店(昭3年、1928年)
当時の図書室(現在の42寮付近)を区切り約5坪の部屋を売店としていた。娯楽会当時の経営で、開店するにも資金も無かったので、T商店から1ヵ月分宛の商品を先借りして始めたのであった。だから商品も菓子、一部の雑貨程度で、多く仕入れることができなかった。自治会創立後昭和7年6月、施設に売店の新築を要求し、8年2月に新築(当時の加工部)、同年4月から開店した。
そして戦中、戦後を経て、34年2月に現在の文化会館の場所にあった倉庫(昔、印刷所や精米所として使用していた)を改造して、売店を移転した。旧売店は専用の加工部として使用することになった。さらに44年12月には店内を改造してマーケット方式に改めた。それでも年々商品数が増え、もっと充実した売店をのぞむ声も高まり、現在の売店(50坪)を51年に新築、52年1月24日に開店して今日に至っている。
売店の場合は、営利よりも入園者の需要に応えることに重点を置いた。だから利率も、昔は仕入値の3%前後、現在は5%を基準としている。昔は商品も少なく、記録によると昭和6、7年頃の在庫品高は、多い月で500円、ほとんど200円から300円であった。それが34年には22万円となり、54年には900万円にもなっている。純利益金も次のように椎移している。
昭和11年度 848円
昭和33年度 285,328円
昭和54年度
1,832,644円
なお54年度の実績は次の通りである。
大口売上金 81,315,410円
大ロ在庫高 8,216,390円
官製品売上金 8,361,403円
官製品手数料 544,054円
官製品在庫高 4,674,063円
利得金 4,674,063円
利得金から人件費ほかの支出を差引くと前段の純利益金となる。現在の売店の設備も十分とはいえないし、商品もニーズ応えられない面もあるが、昔にくらべるとその充実ぶりはめざましいといえる。
養豚(昭6年3月29日、1931年)
自治会創立直後、所当局に養豚事業の認可を求め、仔豚を1匹7円で5匹購入(昭6年5月18日)したが、豚舎はまだ建築途上であり、牛乳をのませたり、布団にくるんで育てた。豚舎完成とともにいちはやく移して飼いはじめたが、許可された条件として屠殺は外部でするときめられ、成豚1頭に約5円を要した。屠殺を許可されなかったのは、患者に殺戮の気風をうえつけるというのであった。
しかし、この手数のわずらわしさもくわわって、暗夜にこっそり屠ったこともあったが、やがてこれも認められるようになった。
戦時中から飼料不足となり、頭数も減って2頭残るだけになった。昭和20年これを全部屠殺し、1人27匁、14銭で581人に配給、豚骨は2回分の代用食のうどんの汁に利用して、同年1月26日に閉鎖した。豚肉の園内販売価格は、100匁12銭(昭7年)、15銭(昭8年)、20銭(11年)、47銭(昭18年)で、市価の半額が基準であった。
戦後再開することになり、愛生園から雌雄の仔豚を贈ってもらい(昭23年7月3日)徐々に増やしていった。飼料は残菜が主で、戦中戦後の食糧難時代にはそれほど頭数を増やすことができなかったが、食糧事情が好転しはじめてから新豚舎建設を計画、昭和29年10月19日に新豚舎(現在の火葬場の西側)5棟が竣工、飼料も外部から購入して、次第に本格的事業として発展していった。利益金の推移は次の通りである。
(年度別) (収 入) (純利益金)
昭和11年度 376円 108円
昭和33年度
1,575,757円 1,211,431円
昭和47年度
4,108,220円 1,272,626円
はじめ頃は作業賃も安く、利益金も多かったが、次第に人件費や設備費が高くつき、純益金は多くのぞめなかった。しかし、100万円を超える収益は自治会の財政をうるおし、年末にはお年玉として入園者全員に配分した。また豚肉も慰安配給したり、安い値段で希望者に販売した。だが近年になって作業人の選任に困るようになり、50年から個人の請負にしたが、それも長く続かず、ついに54年1月31日をもって廃止した。
果樹園
足摺果樹園(昭7年1月31日、1932年)
場所は現在の火葬場の西側付近。約一反五畝(15アール)を開墾し、果樹の苗木を購入して植えた。梨25本、桃19本、無花果10本、枇杷25本、蜜柑七本などである(昭7年2月20日)。新鮮な果物の自給自足を目的として拓いた。8年6月26日初桃60個を病棟入室者へ配給している。
千歳果樹園 場所は島の南部、水が浦という山裾。開墾は昭和9年2月にはじめ同年4月1日に完成。広さは四反三畝(43アール)、果樹苗木は蜜柑100本、枇杷70本、桃270本、柿60本などを植えた。足摺果樹園のものもここへ移植し、その後同園は廃園になった。生産した多くの新鮮な果物は、病棟や全入園者にくばった。そのうち戦争となり、消毒液の入手困難と食糧難とにより果樹を大部分伐採(昭19年)し、さらに拡張開墾して約一町歩(1ヘクタール)までになった。そこへ甘藷と馬鈴薯を耕作、戦中戦後の入園者の飢餓を救うことができた。そして昭和26年、第2次増床工事のため民有地を買収、その代替地として貸与、果樹園の役割も終え、その幕を閉じた。
田中果樹園 昭和12年11月開墾、約一反五畝(15アール)、多年にわたる田中文男博士の厚情を記念して、千歳果樹園に接続して設け、眺などを主に栽培した。
三浦果樹園(昭18年1月)約三反(30アール)三浦幾次氏の厚情を記念して拓いた。これも昭和26年、買収した民有地の代りとして貸与、中止した。
果樹園は開墾してから廃止するまで19年間、新鮮な果物を多く生産して重症者や入園者を喜こばせ、戦中戦後の飢えを救った。その功績は大きく、飢餓の時代を生きのびてきた古老たちは、感謝の思いをこめて、当時をなつかしく思いおこしている。
その他
七面鳥飼育(昭3年、1928年)当時五羽寄贈されたが飼い方を知らず、子供たちが面白がって棒切れなどでたたいたりして、一年余りのうちに死んでしまった。
あひる飼育(昭4年、1929年)飼いはじめ頃は放し飼いであったが、海へ出はじめるようになり、しぜんに数が滅るので、鶏舎のなかに水浴場を作って飼うようになった。卵よりも主に肉を販売していた。ある年400羽のヒナ鳥が流行病で死に、ほどなく中止(昭7年)。
豆腐の製造をはじめる(昭8年4月 1933年)はじめは豆乳程度を販売していたが、漸次豆腐の製造にかかり諸道具を15円で購入、翌年からは本格的な製造になって足踏式豆腐機を125円で購入(昭9年)したが、水質が悪くなりしぜんにすたれていった。
製麺をはじめる(昭8年7月6日 1933年)製麺機を120円で購入。17日にはじめて試食をした。うどん粉25貫20円を加工、1人3玉宛を配給。戦後も再びうどんの製造販売をはじめたが、長くは続かなかった。
製菓をはじめる(昭8年11月、1933年)はじめは製造部といっていたが戦後加工部と呼び、菓子を製造販売していた。戦時中は原料不足のため中止、近年まで餅、ようかん、まんじゆう、六方焼などを加工していたが、最近は休業している。
兎飼育(昭9年7月9日、1934年)兎舎建築12円、種兎4羽4円で購入、漸次増殖していった。兎は肉をとるよりも、もっぱら毛皮に重点がそそがれた。それも当時の軍備拡張にともなう需要があり、一時は100羽をこえるほど飼育した。肉は園内販売。昭和24年に廃止した。
いたち飼育(昭14年11月13日、1939年)皮を採る目的ではじめられたが、増殖もせず、飼料ばかりを使って終った(昭20年)
印刷機設置(昭10年7月21日、1935年)らい予防協会の寄付金によって実現、まず最初に暑中見舞状を刷ってみて、つぎにキリスト教発行の「霊交」、また藻汐短歌、自治会規約などをつぎつぎに印刷、園内文化に寄与したが、印刷工の後継者がとだえたために5、6年して中絶した。
(本稿は青松昭和34年10月号の、あさの・しげる「諸般事始」から、その一部を抜すいし補筆したものです)
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