閉ざされた島の昭和史   国立療養所大島青松園 入園者自治会五十年史

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それぞれの歩み

 患者作業による看護  

 屈折の由来

 入所後3ヵ月足らずのA君に、思いもかけぬ「病室看護」の作業割当てが、相棒2名を付記し、患者自治会から配られて来た。病人の看護なんてへその緒切って以来だし、重症者や島の特殊事情を皆目知らぬ彼は、そんな難作業なんて出来っこない。(無茶な圧しつけじゃ)との不信と当惑を胸に、小声で寮長さんに問うてみた。
 「人違いの指示?でないでしようか」
 「いや、病室看護は皆が敬遠するんで、順番割当てで、新患者にも来よるんじゃ。ご苦労じゃが行って来まいよ」
 指示確認の上、重ねて依託づける答えであった。内心助けを期待し、辞退か、勤務替えの斡旋を頼むつもりだった。
Aは、思わず息をのみ、事の重大さに不安が一時にこみ上げ、狼狽した。顔蒼ざめた彼を察し、寮長や寮員が、「何、心配せんでえエ、先輩がよう教えてくれるけエ、できることをしたらえエ」「あんた手足がマメで丈夫じゃけに、壮健なみしゃ。何でもできらア。半月ぐらい直ぐ済むけに」等々、慰め顔にいうが、何れも奨めロで一致していた。いたたまらずAは裏山へ逃れ、さまよいあぐねた末、入所以来親身に世話してくれる、従姉の主人Tさんを訪ねた。
 執行部幹部でもあるTさんから1ヵ月経た頃、島にも凡そ慣れただろう、若者が何もせず遊んでると、横着な。ぐうだら者″と見なされ、君が傷つく。ぽちぽち作業でもしなさい。と忠告され、就業届けを出し「水汲み」「構内掃除」等の単純作業をすでにやっていたが、なじみにくい疑問と焦燥をともなっていた。
 何より心配なのは、作業がさわり「治るものも治らぬ誘因のおそれである。大学の初診医から、3年も治療をはげめば帰れよう」とすすめられ、治りたい一心で希望入所し 「ベッドで治療に専念」の望みが、全くあてはずれな異状性。治療より作業主体に思える一般や、自治会の奇異な風習、否応なくその中にくみこまれる埋没への不安。その上に、今度の「患者に看護させる」理不尽の圧しつけである。「就業届けするんでなかった」との悔いと、私憤、公憤定かならぬ患いがAの胸に渦巻いていた。錯乱気味ながら、彼は不備、不合理への批判、自我の懊悩など、始めてTさんにぶっつけ、看護辞退の決意を思いきってつたえた。
 いつもの笑顔が真顔にかわり、Tさんはおもむろに話しはじめた。
 君の云い分は正しい。だが、世間の医療常識と異なり、名は療養所でも、設立意図は「隔離撲滅が主眼」、「治療・看護は二の次」が実態なのは「収容者170人に封し看護婦ただの4名」の構成にもうかがえ、国が府県につくらせたお荷物的貧しい基盤ゆえ、最大限。安上げ″策に立ち、開所時から患者使役をあての運営なのは、明治42年以来の作業賃金表(当局刊行史)にあきらかで、その筆頭に看護賃があり、「看護も患者にさせる」のが当初からの基本方針だった訳。(看護婦1名の給与で患者看護人約30人が便えた)
 それを不合理に思っても、目の前の「重病人は放っておけず」とりあえず「お互い同志で看とり合う」ほか術なく、理屈以前の措置で発足した看護作業だが、浮浪者や貧困者を優先入所させ、金持たぬ者が多かったから、安い褒賞金にも釣られ、競って就業したようで“作業申請制度”は当時の名残りである。当時、4、5倍増を要する看護婦の病棟配置は望んでも実現せず、強いて要求もしなかった。そうして看護作業も既定事実で定着した20余年の間に、集団自助がお互いを守るという、運命共同体意識から「軽症者が重症者を世話するのは、あたり前」との気風が培われ、特色の美風とも思いこまれてきた。だから改革を主張して3年前生まれた自治会理念にも、「弱者優先・相愛互助」がモットーで受けつがれ、看護要員充当と病棟運営は主要任務の1つなのである。ところが時移り、小金持参の自宅からの入所者が増え、作業しない軽症者が目立つようになり、現実には最も重荷の看護も放免の形が生じ、負担の偏りがささやかれ、割当ての公平不偏化の必要が生じてきた。陰気な病室での終日勤務は、看護要員の柱となる若者には確かに苦痛だし、役職員や専門職をのぞくと割付け範囲は限られ、同1人が年3、4回勤めねばまかなえぬので、なかば奉仕の気持があってこそ要員確保がえられた訳で、自治会では作業規定を改め、病室看護だけは「作業申請しない者にも割当てる」ことにした義務制に近いもので、可能者みんなで勤めてもらうことにした訳だ。
 看護人総数は、病室5棟で15人、特別付添を加えると20人に近く、不自由舎にも看護をつけた当時では毎期40人近くが必要で、看護可能者の申し出より、約三倍に及ぶから、作業部はその適正な選定にかなり苦慮する状況であった。だから一人でも辞退を認めると、公平をそこなうばかりか、病棟維持、自治会の存在意義にまで影響する訳だ。
 もう一つ拒否しにくい理由がある。“明日はわが身”で、君だって急な熱発で「看護される」側にいつ回るか、その公算はここでは特に・高く、その時、就業拒否した「薄情な人でなし」だから、と看護人にそっぽ向かれたらどうなる?。君は徴兵検査で病名がばれるのを怖れ、急ぎ入所した訳だが、兵役の苦労や強制に比べれば、ここの看護なんて、易しいと云えよう。確かに病人には過重な作業なので、ぽやいたり、避けたがるのも無理からぬ常だが、それでも「税金納めだから」とみんな従事しているのである。君も勤め終えて立派な一人前と見られる方が将来のためでもあろう。相棒のKは親しい友人だから、助けてくれるよう特に頼んであげるから、やって見なさい。僕からも頼むよ………。Tさんは、常にも増す真情と熱意をあらわに、少し理屈っぽいが、諒々とさとすように長い説得を続けた。その中に不文律の掟みたいなものが形づくられ、島内の長いしきたり化し、容易に動かしにくい何かがあることを、Aも感じとり、もはや観念せざるを得ないことを知り、しぶしぶ応じることにして別れた。

  看護業務の凡例

 交替日の夕方、箱車に布団をつんでKさんが誘いにきた。30才位いで一見健常者並み、口数少なく「困ったら遠慮なく云いな、かわってやる」確信と誠意を秘めたロ調で云い、Aの寝具、洗面具の相乗せを助けつつ、「心配せんでえエ」と小声で繰り返す。頼もしさに従い病棟へ乗りこむ。先着のF氏と簡単な定めで、A・K・Fの順で3部屋に就き、直ちに引継ぎする。Aの前任者はまず。“肥え上げ”からと、病人2人の尿瓶を両手に執る。Aも真似かけると「手袋が無い、今は見習うだけ」でと、残るオマルと2度の便所通いに、Aは金魚の糞でついて回るだけ。続いて蚊帳つり、ベッドの前後両端の門形鉄棒に枕ガヤを被せて回る。後は先輩に教われと云い残し、前任者は帰ってしまった。蚊帳の中から病人5名が「看護人さんだけが頼リぜ」とか「特に不自由でお世話に」などと、あらたまった挨拶をいう。顔見えぬままAも「新米で、こちらこそ」とあわてて片言でかえす。「用があったら呼ぶ、あとは寝てもろうて結構」と云われ、Aは早速隣室のKさんを訪ね、仕事内容を教わることにした。「まあ坐れや、茶でものみながら話そうや」Kさんは抱えるようにAを並ばせ、茶菓を奨めつつ、午前中はかなり忙しいぜ、起きぬけの火起こし、湯わかし、肥え上げ、内外の掃除、その間に病人の「洗顔、茶、薬、たばこのみ介助」。八時すぎ朝食を炊事から持ち帰り「配膳、後かたづけ」で一巻の終り。ポンと手をうちKさんはひと息いれ、茶を注ぎかえAにもすすめ、次は九時頃から「風呂入れ、治療ゆき」で希望者を背負って運ぶ。入浴、診療の世話は向うがするから、その間に自分の治療をしておく。その他に、隔日か二日おきの出張治療がきた時の「洗眼、包帯交換の準備とあと処理」がある。午後は「買い物、使い走り」などだが、わりと暇である。勿論、病人が頼む「雑用」も含むが、一度には覚えきれんで、その部度云うてやるよ」ざっとこんな処だ、と業務概要を一気に語りついだKさんは、朝が早いでそろそろ寝ようやと結んだ。「案ずることないぜ」肩叩いてはげます先輩は、唇の神経マヒで一見無表情だが、目もとに笑みがただよっていた。兄貴のような親しみが一気に加わり、Aの不安はかなり和らいでいた。
 初夜半眼のAは、雀鳴きを合図に寝床をはなれ、火鉢の火起こしにかかったが、煙るばかりで手間どった。おまる″の尿交はさらに難行、昨夜の見本通り、桶の前ヅノだけでは提げかねる尿量なので、両手で胴をだき捧げ持ったが、歩くと糞尿がたぶつき、飛びちるおそれもあるので、能舞いのように息を殺し、静々丁重に運ぶ。終えると汗ばんでおり、口や手を洗いきよめて漸くほっとした。八時朝食、始めての配膳だ。T老人がアルミのバットをもち出し「これに飯も汁もブチあけてくれ」という。けげんながらそうすると、ロづけに、ぺちゃくちゃや音たてて食べはしめた。両手首の萎えでサジも持てぬからだが、“豚食い”さながらの凄惨さ、Aは思わず息をのみ、哀しさとこわさが一瞬背筋を走った。己が末路も、もしやとショックでもあった。日程業務は戸惑いつつも1、2日で覚えなれた。多少忙しくとも体でこなせることは、若者にはさして苦労でない。問題は精神的昏迷や拘束の苦痛である。どうにか覚えなれた五日目の夜半、異様な呻きにとび起き、Aは仰天した。隅のベッドのSが、足元のオマルに跨いだまま喘ぎ苦しんでいる。顔面蒼白(死ぬんじゃないか)「どうしよう、どこが苦しい?」と慌てふためくばかり・・・。隣のHが「いつもの発作じゃ、カンフル打ってやれ」と事もなげにいう。その指示で常備の黄色液の方を、Sの腕に大急ぎで射しこんだ。他人にする初注射だが、夢中で怖さも覚えなかった。暫くしてベッドヘ抱き戻そうとしたが、応じず呻き続ける。困りはて、監督室をおとずれ上申「30分も唸りよりゃ大丈夫。モヒ欲しさの芝居じゃ」起こされて不気嫌な監督は、医局の当直から口切りアンプルを貰って来、これで寝よるよ、君も安心して眠れ、と手渡す。持ち帰るとSは自分で這いあがり注射を待っていた。発作もしずまりほっとしたが、Aは眠れず、素人注射の余後や違法が心配だったりした。
 翌日Hから伝えきいたKさんは「あいつ、人を見て甘えるんじゃ」俺が代わるから、君は二号へ移れ、ここの連中は今の処、叩いても死なんもん揃いで安心だろうから、と早々に私物を移しかえる。庇ってくれる厚意がうれしく、その配慮に従った。
 2号室では大した心配ごとも起らず、夜も平静に眠れ、食欲も戻っていた。ところがあと四日となった午後、隣ベッドのNが急に腹痛を訴え、汗びっしょりで苦しみ始めた。無口で控え目なNなので、尋常でないと知り、Kさんに計り、医師の出診を強く求めた。2時間待った医師の診断は「急性腹膜炎だ、辛子湿布してやれ」と命じた。薬局で粉の唐辛子をもらい、水でねり布にのべ腹に巻いてやる。冷んやりすると喜んだのも束の間、Nは夜半から一層苦しみ悶えた。医局へ連絡、当直看護婦がきて痛み止めを打ち、寮員の特別付添がつき、2人で夜どうし見守る。転々と体をよじ、左右へ転び落ちそうなほど苦しみもがくので、2人が両側に立ちつくし、支え撫でてやるほか、術もない。翌朝、医師の出勤を持ちこがれ、再診を乞う。
 一夜で太鼓腹にふくらんだ急変に、医者も首をひねる。湿布を除けると、やけど様に皮のめくれた個所もある。「水を抜こう」と太い注射器で何本も吸いとる。正視しがたい痛々しさだ……それでも、見違えるほど腹がへこみ、随分楽になったらしく、Nは薄目をあけ「世話になるなァ」と弱々しく、一日ぶりで穏やかな物言いをした。重湯をすすめたが食べず「何か欲しいものは、用事は?」と問うても、首をふるだけ。ときに淋しげな視線を見せるが、目が合うと閉じてしまう。その内かすかな寝息に変った。安堵したAは、付添いに後を託し、おくれた掃除や雑用に移り、午後は買物や使いに外出した。
 帰ってくると、少し前〈息絶えた〉、とがガーゼに顔覆われていた。思わぬあっけなさに、Aは呆然自失、言いようもなく、そそくさ、外まわりの雑事にのがれた。翌朝、空きベッドを外に運び、消毒し、数日晒して置く。一床欠けた病室はヤケにだだ広く、荒涼とうらがなしい。病人も言葉少ない。Aはつとめて声をかけ、人なつかしさを仕向ける。こたえる病人側もにわかに親しさを増し、何か目に見えぬつながりを覚える。そして、任期終わりの別れぎわは、ちょっぴり、名残りおしさすら漂っていた。
 昼夜勤務の半月は何十日にも思え、2キロ痩せて帰った。様々の出合いや、初体験で一度に何もかも詰めこまれた気がした。最大の感慨は数ヵ月前まで、野球選手だったというNの急逝で、「絶対の孤独・無常」といったものを、まざまざ見つめさせられたこと。身より頼りのない不憫な弱者集団であり、その典型に如実にかかわりみて、Aの考え方にも幾らかの変化を余儀なくしたこと。制度の是非はともかく、看護作業が目前の不可欠である事実、それに寄与した自分をあらためて見直すとか、その一方で、正常な医療、看護だったらNの若死には避けえたのでないか。など、多くの反省や勉強を余後の思いに抱いたりした。後年、彼も4、5回の入院で、看護されもしたし、20年余にわたって何十回か看護作業に就き、治療助手や病室監督も勤めたが、それらは隔絶下社会での、せめてもの「自助、共存」であり、できる者が奉仕するのは必然の義務、などの価値観を、自然に身につけてきたものである。
 その間、沢山の経験や逸話が限リなくあるが、例えば「痛み止め呉れぬ」なら、と医局の傍で首つった病人を早期発見で抱き下ろし、医師と共に人工呼吸で助けようとしたこと。食糧難の戦時には病棟内自炊、捕食も仕方なく、病人も各自コンロを使っての焚き火で、煙り責めの様相だったが、漁師からふぐを買い、「最高の蛋白源」と大騒ぎして食らった病人と看護人が、ふぐの紋様の肌身となり、息絶えていった光景。或いは、臨終の療友に「首へ抱きつかれ」こと切れるまで2時間余、窮屈な姿勢のまま身をまかせていた、付添療友の姿など、忘れ得ぬ感銘である。
 以上は患者看護制の中間点、開所25周年の項を抽出、一看護人の体験を引出し、情況モデルとした訳で、職員看護制に変わるまでの40数年間は概ね同様だった。

  灰色病棟から整合性への展開を

 療養所ならば、医療や看護が主体であるべきを、最初から看護要員を置かず、病棟は患者に託しきりでよしとするこの象徴こそ、明らかに欺瞞撞着の発想といえよう。
 「英国大使館前にゆき倒れ患者あり、一等国仲間入りの体面上、明治41年、急ぎらい予防法を制定。翌42年、警察部所管の府県立療養所を全国五ヵ所に創設………わが大島療養所も『全く収容の設備完成し』4月25日、知事代理の出席を得、吉田医長以下全所員列席し、厳粛裡に開所式を終了。香川県警察部長が所長を兼任して、間もなく患者収容を開始せリ」(二五年史)とあり、開設意図の主眼は「醜い病人をよせ集め、閉じこめよう」との目的で、当所でも四国遍路の強制収容から開始されており、その「逃走防止」や「治安取り締まり」が、運営の基本方針の主柱をなし、医学的予防策や治療指針等は、初期の記録には皆目みあたらない。それらにつき、開所以来40年間の事情に精通の、元岡山医大学長の田中文男博士は、第三者の観察として、昭和24年青松誌に、概略次のように書かれている。
 「京大医学部吉田秀先輩の異色の就職先で注目、ところが当初の方針は『治療など殆んど目的でなく』初代医長の理想はしぽみ、2年で退職。この如く初期は“収容時代”後任の同窓親友小林君から、医師所長に移り、私も2年に亘り耳鼻咽喉の調査に訪れ、診療手伝いもした中期を“研究時代”次いで待望の国立移管後を“福祉時代”と、客観的に言い得ると思う」との証言を遺されている。
 医療軽視の裏付けは職員録にも窺え、初年度の職員総数42人中、医局員は2割程度にすぎず、特に看護婦は余りにも少ない4人だけである。しかも医師、看護婦の初期の流動は著しく、開設後3年間の就任⇔退任の延べ数をみると、医員=就任7⇔退職6。看護婦=就任14⇔退職11。定着率はきわめて低い。当時、献身的使命観で来任のこの人々が、医療軽視策ゆえの任務の過少評価に失望の早退でもあろう。退職合計17人中、13人が1年未満で辞めている。これと対照的に、取締まり本位の先兵役の「監護員」は5名置かれ、退職ゼロで全員永続なのは、初期の有り様をいかにも物語る1つといえよう。その他、建築年表等にもその立証は得られるが。省くことにする。
 ところで、変則不合理な看護制度がなしくずしのまま、半世紀も続いたのには、患者側のあり方にも現代感覚で問えば、問題なしと言えぬ点もあろう。棄民政策の根元悪に目をつむり、不備冷遇にも忍従一途に耐え、看護制度の欠落も、「自衛上やむなし」と、必死で穴理めに努め、自縄自縛の変則モラルまで醸成して、患者使役に副い続けてきたなどは、結果的に低政策への迎合であったし、因循姑息な処理が、正常化への転換を事実上おくらせた一因、なのは否めぬだろう。だが最大のネックは、患者総体の貧しさゆえであった。極く安の作業賞与にもしがみつかねば、日用費の出どころのない者が少なくなかったからである。
 最高作業賃の病棟看護の日給は、明治42年の「3・3銭」に始まり、昭和8年には「6銭」だった。郵便ハガキが「1・5銭」封書が「3銭」のころで、現在価に換算すると、約「100円」である。24時間勤務で100円なんて、囚人作業賃以外に例のない馬鹿安さだ。そういえば公称の“作業褒償金”(ほめ賞す意)も刑務所と同じで、初期の待遇や扱いに類似点が多いので、刑務所なみ、囚人なみ、の言い方がよく使われたものだ。当時の食費「1人1日=17銭」は現代価約300円だが、刑務所現在の350円以下である。昼夜勤務で煙草も多く喫うが、最安の“バット”10本入り「7銭」で1箱だけでも足が出るから大方が刻みたばこでがまんした。(紙巻たばこはゼイタクだと、売らさぬ友園もあった)
 軽症者は作業しないと収入皆無だったが、病棟入室者と不自由者には「互助金」を自治会で支給した。その資金は、作業者が給与の半日分を換金したり、自治会事業収益が当てられ、支給額は作業者収入の三割程度だった。この互助制度は、みんな一様に貧しい仲ゆえの助け合いであり、現在の自治会呼称の「協和会」(心と力を合せ和ごみあう)の、主要理念の発祥ともいえよう。
 粗末な食事だったから、重態の病人には医師の許可制で「特別滋養物」(粉ミルクや果物など)が給与されたが、食い力も無くなって出るのでは無用なので、看護人は早めに申請してやっていたが、貧乏予算とて、死に近くなって出るのが通例だった。それで、これが出ると病人の中には。「助からぬいのち」と予感して、急に気力を失なう者も出るとか、品不足の戦争でいつか中止された。復活した現在は『病棟全員への支給』で有用効果を発揮している。
 死人にだけ、薄っぺらの白衣が支給されたが、生きている病人は、貸与和服の“着たきり雀”の棒縞ふだん着揃いなので、病棟内も灰色一色だった。看護人は和服では動きにくいので、自弁で作業ズボン等を買って用いる傾向が、既に現われ始めていたが、市価と作業賃の格差が著しかったので、2、3ヵ月を“ただ働き”の勘定となり、割の合わぬ話であった。

  職員看護制へ

 戦後の民主憲法により、人間性復活を得たわれわれは、いち早く、合理的療園への転換を要望し続けた。しかし、見るべき改革はなく、そこで直接請願権を行使して強く訴えようと、全国患者協議会を結成し、画期的「国会陳情」等、センセーショナルな予防法斗争を28年全国に展開して、必死で人権を主張し正常化を訴え、かなりの成果をあげた。
 その一つに、当園でも29年8月、一部の病棟に限るケースではあるが、「看護婦による三交替制看護」のモデルが、次の構成で発足した。
  入室患者=34床
    看護婦=15人、用務員4人。
 患者作業から職員看護への切替えは、当然あるべき正常化への移行だが、この新機軸は、職員、患者の別なく刮目され、特に患者全員から大きく期待され、日々の看護情況が、見舞い人らにより皆に告げられていた。入室者の反応は予想以上に良く、“餅はモチ屋”というのが概ねの評価で「発作時に、病因を見ぬいた応急処置で、鎮めてくれる」とか、「夜中の神経痛も即座の静注で、あっさり治った」など。うがった感想には「病友看護人の数の厚さに比べ、人数はもっと欲しいが、前のような内心の負い目を感じず、何でもしてもらえる」など、微妙な心理効果も伝えた。或いは新発見のように「嫌いな副食で飯を断わったら、おむすびしてくれ、おいしかった」とか「袋まで除けてくれ、夏柑の本昧を何十年ぶりで食べた」など、障害者では、出来ぬ健常人の介助を、素朴に喜ぶ声もあった。
 定着したモデル病棟には「専門家に看とられている」、との安心感が確かに感じられ、病人も漸くにして「己れを得た」との落ちつきと、明るさが漂っていた―この好成績を背景に、患者自治会は、残る「全病棟の職員看護制」を、近代化の大前提とし、要求の最重点項目に掲げ、医療法の看護基準に程遠い遅れを厳しく指摘して「看護婦の大巾増」をかちとるべく猛運動を各方面に行ない、国会において「時代錯誤ならい園差別の即時改善」を追求してもらい、行政府から「年次計画で実施」の確約をとりつけ得た。整合性訴えの成果といえよう。
 創立50周年の昭和34年、全病棟の職員看護切替えのための「管理棟・各病棟連結廊下・風呂場等」の増改築工事が開始され、看護要員の配属も得て、翌35年ついに歴史的転換が実現し、患者による病棟看護は終りを告げ、本物の療養所と言い得る土台造りとなった。ちなみに、25年単位の入貢構成は別表の通りである。

年代別

患者総数

職員総数

医師

看護婦

保清婦

明治42年

162

42

昭和9年

592

69

18

昭和34年

702

132

41

13

 註 医師以下の項は、医療・診察・看護関係内訳

 創立時に比べ、50年後の在籍患者は3・5倍弱、職員総数は3倍強、医師は3暗弱で、看護婦の10倍強と、保清婦の新設が、職員看護制のための割り増しに思えるが、医療充実の正常化を望むには、医療関係職員は更に多くを必要とする。
 尚、昭和55年現在は、45~46年に改築された新病棟で、定員60床を、ナース20名、保清婦6名でもって、三交替制“完全看護”が施行されている。
 さて、病棟の職員看護化は一応達成したが、完全正常化には未だ到達しないのが、ハ氏病療園の特殊性であり、大半が身障度1、2級の日常生活不能患者で、その「不自由寮看護」も患者作業から、職員看護制に移行しなくては、看護問題の完結とはならない。病棟の達成に促され「不自由寮看護も職員へ切替えを」と、要看護者一同の強い希望で、当自治会でも総決起大会を開き、座り込み陳情などを行ない、その早期実現を、全園結束し全患協運動として、当局へ執拗に迫った。その結果、当園でも39年1月、重不自由寮(現第1センター)32床を、看護助手(保清婦)による「看護切替え」が開始され、40年10月に第2センター、42年には第3センターと続き、44~45年にわたる第5センターの切り替え実施で、現不自由寮の職員看護制を一応果したものの、看護助手は純粋な「新規増員」であるため、定員法などに阻まれ、看護基準をゆがめての少数配置なので、高齢化にともなう増床も含め、実質入貢不足の課題は後を残し、今後も「充足増員の要求」を根気強く続けねばならない。
 古老たちは「昔を思えば、今の療養生活は極楽じゃ」、と口を揃えていう。確かに、看護制度だけ抜きだしても、今昔に、天地の差は明らかである。とりわけ、昔のそれは、冷酷・非情な“捨て小島”そのものの処置であったが、極楽の反語で呼んでは、われわれ自身がみじめに過ぎよう。孤島の吹きさらしに、弱いがゆえに身を寄せあい、互いに耐え、あたため合って、自力で生きぬいて来たのだから、せめて言うなら、“冬の時代”ぐらいが、もっとも、ふさわしいように思うのである。

  

「閉ざされた島の昭和史」大島青松園入所者自治会発行
昭和56年12月8日 3版発行


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