閉ざされた島の昭和史   国立療養所大島青松園 入園者自治会五十年史

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それぞれの歩み

 習俗と園内特殊語 

〈冠婚葬祭のこと〉

室入り・すじ切り

 小さい島で病気は治らないものと思いこみ、男女が生活を共にしていれば、いつか愛が芽生え、結ばれるのは自然の成りゆき。その園内での結婚を「室入り」と言った。夫は妻の女共同室に泊まりに行き、朝、男室に帰ってくるという、個室夫婦寮の無い時代の呼称である。
 明治の開所当時から大正末期にかけては、ボスが男性側の順番をきめ、女性が入園してくると、年齢の違いなども考慮せずに、かねて決めてあった順番によって結婚を強制したり、女が入園したその夜から強引に婿入りする者もあった、という話もあるが、自治会ができてからは(昭6)、相方の合意によるものとし、届出ることを規定づけた。
 式の当日の朝、当人、相方の室長、仲人によって自治会事務所へ届出(現在は福祉室へ)登記されると園内で公認された。その時、一般への披露も兼ねて、いくばくかの寄付金を差し出すのも慣習となった。式は夕方うす暗くなる頃からで、定刻前に女室の代表数入が迎えにきて、用意していた枕と布団を持って新郎と男室の全員一緒に女室へ向う。電灯のない時代はちょうちんを先頭に行列をつくって行った。手持ちの晴着を着て、新郎、新婦は部屋の正面に並び、両方の室員と友人たちが座につき、仲人と両室長の挨拶があり、ゴールデンバット2本と質素な茶菓が出て「めでたし、めでたし」でチョン。この間約30分。
 このような室入り風景は、昭和27年に初めて個室の夫婦寮ができ、その後数年で夫婦寮がゆきわたってからは自然解消し、32年頃からは集会所で披露宴をおこなうようになった。55年7月現在の夫婦者は118組236名入園者497名に対し、約48%。その内最古参は昭和3年結婚で、金婚式も超えた。昔は内縁関係であったが戦後は正式に入籍する者が多くなった。
 結婚する者は男子が輸精管結紮の優生手術、ワゼクトミーをおこなった。これを「すじ切り」と言った。大正15年頃から実施された。当人の依頼によるもので、強制はされなかった。手術は結婚前にする者、堕胎後する者、全くしない者などいろいろであった。しかし、子供ができても自分で育てられない環境なので多くの者が手術を受けた。

夜伽米・死に金・長者醵金

 「夜伽米」と「長者醵金」はすでに過去のものになったが、「死に金」は今も口にする人がいて、ひそかに用意している。
 「夜伽米」とは、死者の通夜の菓子代りに支給される米のことで、炊事場からもらった米を婦人たちが炊き、おにぎりにして通夜の席に集った人たちに出した。戦中、戦後の食糧難時代には貴重なおにぎりとなった。昭和6年5月から二升支給されるようになった。これを売店で菓子と交換したり、ローソク、線香、供物などと換えた時代もあった。25年にはこれが三升になったが、後年、現金支給となった。
 55年7月現在、1人の死亡者に対し園から支出される経費は次のようなものである。
 柩14,000円 経かたびら680円
 僧侶謝金6,000円 火葬謝金8,000円
 計28,000円
 この他葬儀料(司祭宗教へ)700円、通夜料1,000円、供物料400円、合計2,100円、総計30,780円。この他自治会からも供物料6,000円が出るが、これだけでは供物代、花代にも不足する。
 そこで「死に金」が必要になってくる。世間でいう無益な金使いのことでなく、死後の用意に蓄え置く金のことである。他人にみとられ逝く後の葬式代とか、生前世話になった人に対する謝礼を平常から用意しておかなければ、と貧しい中から蓄えるモラルは、共同生活体の平素の気兼ねがちな生活から生じた措置であろうか。「檜山節考」のおりん婆さんの心情と共通の背景をなすもので、今でも国から出る経費は形式的な少額なので、誰もが「いくばくかは用意しなければ」という気がかりが消えがたいのである。
 「長者醵金」は、夫婦者全員の中だけでおこなわれていた「香でんカンパ」の申合せで、前述の出費をお互い同志でたすけ合うためのもの。大正7年頃からはじめられたと伝えられる。“長者”の冠詞は、園内での結婚は長者の位にも等しいという優越感の形容で、少数の人々が言っていたものである。金額は1人3銭か5銭の作業賃1日分程度であったが、良識ある者は集金も夜間ひそかにおこなっていた程だから「独身者を除いた差別的行為は好ましくない」と、昭和27年4月票決により廃止された(廃止賛成183票、継続73票、中立3票)

籍元・祭祀世話人

当時の自治会会則第3章に、次のように記載されている。
 第五条 重不自由者、不自由者、少年少女のために籍元を設ける。
 第六条 籍元には普通寮(軽症寮)が当たる。
 第七粂 籍元は在籍者の付添い、入室、転室、退室(病棟より)、転寮を助力し、葬儀に関しては所属寮長と協議し、これを司祭する。

 不自由者の大事の場合の共済制度であり、“親元”みたいなものである。要保護者名を軽症寮へ指定配分しておき、必要に応じて軽症者が助力を分担した。その中の大役は「重症時の病棟における付添い」と、「死亡後の一切の処理」であった。この籍元制度も、病棟、不自由寮の職員看護切替えがすすみ、あわせて不自由者が増加、一方、軽症寮員の健康低下等の理由もあって廃止した。昭和40年である。しかし「死亡後の処理」のために「祭祀世話人」という専任の係を設け、今日まで続いている。人員は五名。
 業務内容は、死亡者の遺族、友人知己への連絡、枕頭のあとじまい、夜伽室斉壇の準備、通夜、葬儀法要の準備、あとじまい等である。最近は、この祭祀世話人の選任もむつかしくなっている。

二五貫・洋館ゆき

 1人の死亡者の火葬に使用する薪が約二五貫(約100キロ)ということで、皮肉と自嘲をこめての言葉である。当時、園内で使用する薪は、原木を購入し、患者作業で作っていた。割りにくい大株は「大割り」と称して「こいつも焼場ゆきぞい」と別に積上げ、荒くれ立ったそれを、自分にも累々と積まれて果てるのだ、という実感から湧いた言葉であろう。昭和54年に新火葬場が竣工し、重油バーナー式になり、もう薪は不用となった。
 「洋館ゆき」は「赤煉瓦」ともいったが、赤煉瓦造りの旧火葬場の形容から生れた「死ぬこと」の符牒である。居室は貧相な木造平屋ばかりの昔から、火葬場と納骨堂だけは、立派な洋風建てだったので「死んだら洋館へ行けらァ!」と、患者の死滅だけを念願とした当時の隔離政策に対する、これはひそかな抵抗感覚と皮肉から生れた言葉である。これらは戦前に使われた言葉で、プロミン出現以後は治る希望を持ち、死語となった。

〈年中行事のこと〉

餅つき

 昔にくらべて、園内の年中行事といえるものはほとんど消滅したが、いまも古老たちがなつかしみ、時々話題になるのが年末の餅つきの話である。あの頃はみな若く、元気で活気があった。まるでお祭りさわぎであった、と話す。当時の自治会日誌に、次のように記されている。
 昭和6年12月28日 青年団総動員にて正月用餅つきの準備をなす。吾らの手にて正月餅をつくのは今年をもって最初とす。もち米十一俵及び取粉八貫役所より下付、販売部よりもち米五俵を買い足してついた。午後五時より開始。
 12月29日 昨夕よりつき始めし正月餅六石四斗は、本日午前六時半終了、各室へ分配して、全て終ったのは正午。
 昭和7年り12月28日 午後四時半というに早くも餅つきを開始、宵のうちは非常に元気よく、特に子供たちの喜びは一入であった。午前三時頃に至りしばらく元気失う。然し夜明方に至り再び元気回復し、もち米六石七斗、三四〇臼をつき終る。餅つきに来たる者一同に、日本MTL寄贈の手拭いを呈す。
 以来、年末の餅つきは12月28日と決まり50年間受け継がれてきた。人手不足で昭和30年に餅つき機械を据え、一部の元気な者の作業となった。配給量は1人1升で、丸餅にして約25個。初めの頃は自治会が買い足して1人1升5合の時もあったが、戦時中は1人5合になったりした。昔は会館の玄関でついた。石臼を並べ、三人から五人が臼を囲み「ホイサホイホイ、ホイサホイホイ」とかけ声もはずみ、一臼つき上がるたびに大きい喚声をあげた。女たちも顔に白い取粉をつけたりして、餅をまるめキヤァ、キヤァはしゃいだ。夜食に米の飯を出した。おかずは沢あんと大根なますがきまりであった。戦後は加工部でつきはじめ、機械化して今日に至っているが、その加工部も55年度の整備計画で、とりこわされる運命にあり、50年の餅つきの歴史もまた変わるかもしれない。

盆踊り

 昭和6年8月14日の自治会日誌に「中元余興として昼は碁、将棋大会、夜は盆踊りを催す。ちなみに盆踊りは開所以来初めての催なり。馳走白飯にソーメン百匁宛」とある。さらに15日には「馳走として白飯に団子、なお水二〇貫役所より下付(盆踊り用)、夜は盆踊りを催し、特に景品つき変装踊りにてなかなか盛大であった」と特筆している。
 盆といっても食物や生活は質素であったので、賑やかな盆踊りをはじめたのであろうか。自治会が発足した年であるから、自分たちのことは自分たちで守り育て、明るく平和な生活を求めるという気持も強く、盆踊りもそうした思いからはじめたのかもしれない。当初から青年団主催ですべての世話をした。はじめ頃は現在の8寮付近の寮舎が建つまでの敷地で踊っていたが、後年現在の自治会事務所の東側グランド、そして昭和30年ごろ職員グランドヘ移った。
 19・20年は戦時体制下で中止し、戦後21年に復活し8月13日から15日までの3晩になった。中央の踊り櫓もはじめは芝居用の床几を積み重ねたり、丸太棒を組んだもので、大勢が上がると揺れたりしたが、26年から組立式になった。踊唄も「一合まいた」と「江州音頭」が主で、東京音頭、相馬盆唄、炭抗節、ヤットン節など、時代の流行唄と踊りをとりいれた。
 女たちは浴衣姿でうす化粧をし、ほのかな色気を漂よわせ、手ぶりもあざやかであったが、男たちは、この時とばかり女たちの間に割りこんで阿呆になって踊った。踊りの輪が二重、三重にもなると熱気があふれ、明け方まで踊ったこともあった。職員の家族、島の住民、看護婦たちも一緒に踊った。
 娯楽の少ない当時の人間同志の触れあいや、楽しみの場となり、その夜が待たれた盆踊りも、29年に青年団と婦人会が解散してから、自治会文化部主催となったが、その頃から踊り手が年々減少し、39年を最後に中止となった。50年頃職員有志が復活しようとしたが、あまり流行らず2年で幕を閉じた。以来、華やかな島の夏の風物詩「盆踊り」も、歴史の波方に消えてしまった。

神職会

毎年、香川県連合神職会が平癒祈願祭を催してくれた行事を、略して神職会と言った。その日のご馳走が「寿し折詰」に定っていたので「折詰」の日として親しまれていた。寿しの別名に思い違えていた新入園者もいた程で、強風が吹いて船が欠航すると、神官が来ないので寿しが流れる。と心配したものであった。その頃、折詰が出るのは、開所記念日と、神職会と、追悼会の年3回に限られていた。日頃の献立は良くなかったので、その日が待たれた。そうした行事もいまはと絶え昔の語り種となった。

いもづる祭

 入園者の平均年令も60才となり、自分たちで主催するお祭り的行事も、その多くが自然消滅してしまったが、近年になって「いもづる祭」が毎年の夏の夜の行事になった。これは外部の「いもづる会」というボランティアグループ主催、自治会後援で49年からはじめられ、今年(55年8月2日)で第7回となる。
 「いもづる会」は、もと阪神方面の青年男女のボランティアグループで、学生時代の約20年前から毎年ワークに来園、人間はみな兄弟、助け合い、協力し合い、恵まれない人達にあたたかい手をさしのべよう、そうした善意と連帯の心を「いもづる」のように延ばし拡げよう、という主旨によって結成されたということである。中心的メンバーは今も変っていないが、すでに結婚され子の親となっている人も多い。それでも夏になると島にやってくる。毎年若い人達も加わり地元の高松からも参加している。今年のメンバーは約30名。それに職員や看護婦たちも応援、自治会役職員も総出で働いた。
 場所は西海岸の心月園(故野島元園長の記念公園)で、いくつもの食品の夜店が並び、不自由者センターの人達も集まり、職員やその家族も参加する。やきとりやおでんを食い、ビールやジュースを飲み、そして歌い、賑やかで、なごやかなふんいきとなる。参加できない病棟やセンターの人達には出前もする。今年の品目、単価、売上総数は次の通りであった。
 おでん100円、170皿。やきとり150円、800皿。冷ソーメン70円、170杯。わらび餅50円、180皿。たこ焼50円、480皿。ところてん70円、140杯。冷コーヒー20円、80杯。冷ぜんざい50円、280杯。サービス品として綿菓子とあめ湯。
 余興として花火を打上げたり、高松から楽団を雇入れたり、庵治の「締め太鼓」の慰問が来たこともあった。今年は景品つき輪投げとカラオケ大会を催した。一段と内容も充実された。芝生にテーブルを並べ、お好みの食品を注文し、職員も介護を兼ねて同席、納涼のパーティとなる。輪投げに興じる者、自慢の唄を歌う者など、年に1度の祭りはみんなの心をなごませてくれた。
 外部のボランティアの人達と、職員の善意によって催された「いもづる祭」を考える時、今後もこうした形でしか園内の行事ができなくなることが予想される。「来年もまたやりましよう」と言って祭りを閉じたあと、人々は今年もまた一つの夏が終ったことを思い、来年に期待をつなぐ。

〈生活のこと〉

くらのもの

 園から支給される官給品のことで、主として着物や履物などに使われ、私物品との対照語として生まれた言葉。倉庫から一度に全員に渡された機会的動作から生じたのであろうか。職員から「オイ、コラ!」とか「患者のくせに」とか言われていた時代の、いかにも施設患者らしい古さや、レイ属的ひびきが漂っていた。戦後は「官給品」と言われるようになったが、今は忘れかけている呼び名である。
 当時、2年から1年半の貸与期限で支給されていた衣服は、単衣、袷、綿入、夏冬襦袢各1枚、帯1本などで、これらを「くらのもの」と言っていた。老若の別なく黒っぽい木綿の和服を着せていたから、島全体が病院即「白衣」の清潔感とは全く裏腹な、黒一色の群落に見えた。昨今のオシャレとは、全く天地の違いで、当時の質素で貧しい生活がしのばれる。

軍曹・追い割り

 旧軍隊の炊事班長が軍曹だったところから、軽症寮の炊事当番をこう呼んでいた。炊事と洗濯は病人にとって大役だったので、威勢のいい煽り言葉で自からを元気づけたのかもしれない。炊事当番は、朝早く人よりも先に起き、水汲み、廊下と便所、寮周辺の掃除、炊事場からの食事運搬、食缶洗い(昔は桶)、湯沸しなどをし、寮員の輪番であった。手に傷があったり、熱があったりした時は大変な苦役であった。
 「追い割り」は分配した後に残った飯を、給食手伝いの作業人が、寮順に配っていた配給方式のことで、「今日は追い割りが来るぞ」と、戦中戦後の食糧難時代には、待ちのぞんでいたものであった。他の配給品にも使われ、チリ紙でも枚数をよんで追加配給したものであった。
 新入園者を、定員以上の寮へ割りこむのは「追いこみ」といって、24畳の1室に15人から17人も入れた時代もあった。これらも古き時代の苦い思い出となった。

大ジョン・小ジョン

 火曜日の魚が「大ジョン」、土曜日の肉が「小ジョン」で、週間献立のご馳走のことをそう呼んでいた。犬が尾を振って喜ぶ情景から名付けられたといわれるが、おどけたアワレさをもつ諷刺コトバである。危篤の病床へ駈けつけた肉親が「海のさ中にいて魚もろくろく食えんかったのか、かわいそうに!」と嘆いていたのもこの頃であった。2人の栄養士がいて、老人食ほか食餌療法が管理されている現在の人々は知らない、昔の話である。

北海道

 別名「瓢島」の青松園は、さながら日本列島のように南北に細長いので、北地区を「北海道」と呼ぶようになった。そこは女療舎地帯であったから、女子寮の代名詞にも使われた。荒涼無頼の初期の入所者も唯一の詩情と、あえかなロマンチシズムを寄託して命名したのであろうか。今もそう呼ばれており、職員をはじめ、島民全体がこのあだ名で呼んでいるばかりか、世人にも知られている程である。
 「北海道へ遊びに行こう」そういって男たちは「北海道通い」をしたものであった。

そうけん・しゃかい

 園外の人をおしなべて「壮健」と呼んだ。単的な患者社会との対照用名詞である。同じ健康人でも園の事務員は「お役人」または「職員」と呼び、職員以外の島民のことは「村の人」と言い、「そうけん」の範囲より別であった。平日、入園者が晴着で歩いていると「壮健かと思ったぞ」といった調子で、外の病気でない人を一様に「そうけん」と呼んだが、近頃は「健常者」というようになった。
 「しゃかい」は、島の外の意で、刑務所での「娑婆」と同義語である。隔離が終生の運命と諦らめきっていた昔は、再び住めぬ世界を追慕憧憬して、「社会にいた頃は」とか「社会は祭ごろだが」といった具合に、絶えず使った言葉である。文章などには「実社会」とも書いたが、「島内も一つの社会だ、我々も共通の人間だ」と自覚してきた頃から、いつとはなしにそうした言い方はしなくなった。

あがる・さがる

 上がる・下がる、の意で、官庁用語である。医師や看護婦が治療棟や病棟への出勤は下がる、退庁が上がるだった。入園者も不自由になって、軽症寮から不自由寮へ入居する時、「不自由寮へさがる」と平然と使われていた。階級的差別を公然と表わす、嫌な言葉である。

とうそう

 園外へ脱出、逃走することで、制度がきびしく、待遇の悪い昔は3日にあげず発生した。舟を盗んで逃げる者、板切れや、たらいにすがって屋島海峡を泳ぎ渡ろうとして、失敗した者など、いろいろで、当時の療養所の在り方がしのばれる。外出や帰郷を願い出ても、簡単に許可されなかった時代のことである。

のど切り三年

 結節や全身の腫れが咽喉にまで及ぶと、呼吸閉塞をきたし、のどに穴を穿つ応急手術をしなければ蘇生しない。発病の宣告、失明、咽喉切開を、ハンセン氏病の三大受難というが、末期症状に近い「のど切り患者」は結局、術後3年位いで死んでゆくのが通例だった昔、こんな惨酷な言葉が流布されたものである。プロミン以後「のど切り」などは皆無となり、昔の受難者も何十年も生きられるようになった現代、この言葉も埋もれてしまった。

水押し・水取り

 上水道が設置されるまでの30余年間は、ツルベや手押しポンプで揚水していた。風呂や炊事場、治療棟、病棟等には、特設の水槽タンクがあって、塩分の多い用水を汲み上げる作業を「水押し」と呼んだ。なかなかの重労働であった。「風呂は何千何百」「病棟タンクは何千押したら一杯になる」と、数まで覚えてガッタン、ゴットン汗水流して汲んだものである。
 「水取り」は水道敷設以後に設けられた作業で、各所の水槽や、大きな浴槽への水栓バルブの開閉を受け持つ役目の軽作業であった。水に悩んできた島では、このほかにも「水配り」という干天断水時の作業もあった。井戸水を各寮へ桶に1ぱい宛担いだり、車で配水していた。島の宿命的作業であった。

 (本稿は青松34年10月号斉木創「俗説による園内特殊語」の一部を改作、補筆した)

  

「閉ざされた島の昭和史」大島青松園入所者自治会発行
昭和56年12月8日 3版発行


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