閉ざされた島の昭和史   国立療養所大島青松園 入園者自治会五十年史

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それぞれの歩み

 宗教団体少史  

 現在、園内には8つの宗教団体があり、それぞれの御堂、教会、集会所で熱心に信仰の道に励んでいる。個人の信仰は自由で入園時に、自動的に所属宗教の会員に登記される。転宗も自由で、入園後自分の求める宗教へ移籍する者も多いが、どの宗教にも属さない者もいる。戦前には「キラク会」、戦後には「思索会」という無宗教団体もあったが、現在はそうした組織も無く、個人の自由意志で現存の宗教団体に入会していない。
 昔から現在にかけて多くの僧侶や布教師は度々来園し、長期療養者を慰め、説教や祈りを通じて、肉体的苦痛や、精神的悩みを超えて生きることを教えてきた。そしてよき理解者として、社会に対しても理解を求め啓蒙に勤められた。
 開所当時から現在まで宗教の果たしてきた役割は大きい。昔は無頼の徒も多く、共同生活が乱されることもあったが、そんな時、宗教の世話人が説得したり、目にあまる者は宗教団体から除名して懲らしめたといわれている。宗教は信者の心の拠り所であると同時に、園内の秩序維持にも寄与してきた。
 人間の心には金銭や物品では満たされない部分がある。入園者の老齢化とともにその生き方もむつかしくなってくる。しかし施設も自治会も、個人の「心」の問題にまで深くたち入ることはむつかしい。そうした意味からも、今後の宗教の果たす役割はますます重要になってくるであろう。

 真言宗同体会

 大正10年から14年にかけて、会員によって御影堂建立の敷地を造成。この期間に本山寺住職大僧正長田実毅師が発起人となり四国霊場会賛同のもと浄財3700円を募金、建坪16坪、鉄筋コンクリート銅板葺き本堂を大正15年10月25日竣工、同日津田法道寺住職近藤実忍師より、本尊高祖大師尊像を迎え落慶大法要を挙行した。以来毎年10月25日、毎月25日を入仏記念日として現在に至っている。園内八十八ヵ所石仏を現在地に移したのは昭和31年7月。37年には御影堂を増築(14・5坪)した。
 55竿7月2日正午、不幸にも御影堂祭壇付近より出火、全焼した。7月4日から再建資金を募金、9月再建に着工、56年1月竣工予定である。現在の会員156名。月例祭17日、20目、25日のほか、年6回の大法要を挙行。庵治町願成寺住職牟礼宥英師には特にお世話になっている。

 真宗同朋会

 本園開所当初は各宗派合同で高松興正寺派関係寺院より僧侶を迎え、追弔法要とか合同葬が営なまれてきたが、会員が増えるにつれて宗団結成への気運が高まり、大正4年頃、高松願船寺神谷浄因師の働きかけもあって「同朋会」と名付けた。大正8年以降、御本尊厨子が寄贈されたことにより、旧礼拝堂にお祀りしていっそう信者の礼拝信仰が盛んになった。
 昭和40年、10年近くに至る請願が実のり、西本願寺社会部長林竜雲先生をはじめ宗派関係者のご尽力により200万円余の西本願寺財政よりの御援助で、現在の本願寺仏教会館が実現した。現在の会員は120名。正月法要、春秋彼岸法要、毎月27日の月例法要、5月宗祖降誕祭、6月物故者追悼法要、8月盆供養、11月報恩講のほか、高松円座町教法寺松下了雄先生をはじめとする各氏の、20有余年に亘る布教を仰ぎ、庵治延長寺大仏光良師、願船寺神谷知建師、高松興正寺別院津田光西寺河野志郎師、京都林竜雲師、大川郡仏教連合会の諸先生のご指導とご援助のもとに、毎年春秋のお寺詣り、隔年ごとの京都本願寺詣り等もおこなっている。

 キリスト教大島霊交会

 創立は大正3年11月11日。当時の会員は三宅官之治氏をはじめ5名で、S・M・エリクソン宣教師、宮内岩太郎牧師には特にお世話になった。当時は教会堂もなく、ために一般の礼拝堂を、各宗団で時間割りして使用した。のちにテントの寄贈があり、これを活用、またその後、会員の献金によってバラックの教会堂を建てるなどの曲折があって、昭和10年にいたり、アメリカン・レプロシー・ミッションから鉄筋構造による現在の教会堂がおくられ、同年5月21日竣工。
 特筆すべき経過としては、創立時から2、3年と、大正10年頃の2度にわたって、他の既存宗団が連合して霊交会(キリスト教)に対する迫害行動をおこしたということ。
また、このこととたたかうため、霊交会の会員は、ブリキでつくった十字架に赤布を貼りつけ、これを胸にとりつけてキリストの僕(しもべ)であることを鮮明にして、おそれず行動したということである。
 現在(昭55)の会員数は54名。毎日の夕べの祈祷会、毎週の聖日(日曜)の礼拝、定期来教の牧師を迎えて毎週火曜日の特別礼拝、春秋の召天者(140名)記念会、春のイースター札拝と暮のクリスマス礼拝等をおこなっている。交流の関係としては、長島曙教会と光明園家族教会との交わり、伊予三島真光教会へ出向いての合同聖会、高松地区の各教会との交わりや、高知市の土佐教会の皆さんとの交歓がある。
 日頃お世話になっている先生方は、河野進先生、井上明夫先生、小島誠志先生、宮越文次郎先生、吉高国彦先生、金田福一先生、好善杜(東京)の藤原偉作先生である。

 天理教寄進会

 大正3年に1人の信者が入園し、その後5、6名となり、部屋や、海岸、納骨堂付近等で朝夕の礼拝をしていた。大正13年から高松部属八栗宣教所長木村留吉先生が布教に来園されるようになり、「天理教寄進会」と命名、当時の会員は12名、初代会長は北山謙三氏であった。
 木村先生は毎月来園され、戦後もともに礼拝、娘さんの喜子、容子さんにもひきつづきお世話になった。昭和5年に信者が力を合せてバラックの教堂を建て、同年12月落成、12月18日落成の式典を挙行。その後本格的な教堂建設の気運が高まり、香川教区、高松支部ほか多くの支部からご寄付をいただき、昭和36年12月3日、現在の教堂が竣工、神殿落成奉告祭には高松支部、大川支部、綾歌支部、八栗分教会等から多くの先生や信者の方が参加された。
 戦前戦後を通じて、布教部長橋本正治先生、高松分教会長北島正邦先生、京都教区長酒井康比古先生ほか、多くの方々のご慰問やご指導をいただいた。そのほかに米園された方々は京都の上原繁雄先生ほか、中西太一先生、山中登先生、前川知也先生、鈴木先生、北島先生等で今は高西分教会、高中津分教会、高津賀分教会、香川教区青年会等のご慰問やひのきしんをしていただいている。
 毎年本部団参も実施し別所母屋に宿泊、天理大学成人グループの方々には特別のお世話になっている。別所母屋は41年から療養所信者の宿泊所として活用し、全国療養所の人達から感謝されている。
 現在の会員は35名。毎日の礼拝のほか、毎月18日の月次祭典には高松支部から2、3名巡教に来園されている。

 金光教青松園求信会

 昭和4年太田垣益一氏を代表として求信会が生れた。昭和6年8月高松市内の金光教各教会、坂出教会、阪神地方金光教信徒多数の慰問があり、本部の高橋正雄師の講話があった。その時、会堂建設が話題になった。
 その後大阪求信会の集りで白紙献金がなされ、青松園求信会々堂建設資金の浄財が集められ、高松教会の須崎立道師のお世話で、信者の大工により昭和7年5月25日、会堂が落成。以後朝夕の礼拝、10日のお祭り等信仰が深まった。葬儀は求信会長が斎主になって行なっていたが、昭和40年3月太田垣氏の葬儀から金光教々師によって葬儀、法要が行われるようになった。44年10月には本部へ団体参拝を実施、50年には本部より「天地書附」の額をいただき「頂く信心から生み出す信心へ」と信仰が進められている。
 年中行事は四国教務所主催の春秋2回の御大祭、物故者の尉霊祭、四国教区香川県青年教師会教師2名による毎月の月次祭と教話の御奉仕、求信会のみでは新年元旦祭、毎月の10日祭、春秋彼岸祭、年末大祓祭報徳祭等がある。他園信者との交流としては、邑久、駿河、菊池求信会との交流文通を深めている。現在の会員15名。

 カトリック聖心使徒会

 宗教団体として公認されたのが昭和25年4月16日。発足当時の会員は7名。その頃高松からサンタ・マリヤ神父、田中英吉現司教が来園し、宣教と司牧に当られ、職員側信者(林富美子医師他)の協賛は大きな力となった。聖堂の建立は昭和29年5月30日。建設資金は故田口芳五郎枢機卿、田中英吉現司教の理解により、教区からの出資と共に、ペルリーニ神父(ザベリオ宣教会)の募金活動の陽物によるものである。
 国立の施設のなかの教会ということで、司祭の常駐はなく、施設側の厚意により、常駐に近い一時期を除き、高松教区司教館付きの司祭によって、典礼、祭儀の執行、研究講座の指導があり、現在、深堀敏司教、下田武雄神父(専任)に至るまで宣教と司牧に専任された神父は、10名に達しており、6年間も続いてその任に当って下さった神父も居る。司祭、修道士(女)、一般信徒の来訪は数えきれない程で、他教会との交流も年を追うごとに多くなり、定期の年間行事となっているところもある。
 会発足とともに発行した機関紙「海のほし」は、「献堂20周年記念誌」以後休刊。理由として会員が少ないこと、会員の老齢化(平均年齢59・4才)があげられる。
 現会員は15名(男11、女4)。職員側にもほぽ同数の信者が居り、典礼、祭儀ほかの協力と援助をいただいている。

 本門仏立宗大島六清会

 昭和32年名古屋市の清水喜代子さんと、当時職員であった海老沼健次さん(お二方は現在故人)との出会いが機縁となって、同年12月に松山市松風寺住職吉田御導師、高松市妙泉寺住職山田日衆御導師をはじめとして、第九弘通区婦人連盟亀山さんほか数名が来園された。このことが契機となり、33年3月に六清会を結成した。
 それから1年後に仏立宗本庁をはじめ、関係各位の尽力によって大島六清会講堂を建立。34年6月23日本庁から小山日幹上人をお迎えして仏立講堂の開堂式を挙行した。この時点の六清会々員は20名程度であった。
 それ以来も吉田御導師を中心とする方たちが、宗門にとって大事な行事、日蓮大上人のお会式(10月12日)、日隆上人のお会式(2月25日)、日扇上人のお会式(7月17日)等の奉修を目的として、年に数回は来園されていた。最近は山田御導師が中心になって行事のときには来園下さる。その上に今治市清唱寺住職桜井御導師が毎月一度は法話のために来園。現在の六清会々員は12名。
 なお、仏立宗本庁は、青松園全入園者を対象として、毎年「らいを正しく理解する日」の6月には、知名度の高いタレントによる尉問の実施。44年には仏立宗婦人会の奉仕作業によって納骨堂の、骨箱の包み替えが行なわれた。

 日蓮正宗創価学会

 団体結成は昭和36年7月。初代代表は大道吾市氏で会員数は16名であった。当時から大島在住の山本豊子さんにはお世話になっている。高松の長尾早見、ツユ子様御夫妻、及び岡山の守屋栄治氏、北正明氏らが布教に度々未園された。
 大島集会所の建立は昭和51年7月20日で、日蓮正宗創価学会本部の寄贈によるものである。特に松藤欣道尊師(東京在住)にはお世話になった。
 現在の会員は48名(55年8月)。年中行事は、座談会(月1回)、御書学習会(隔月に1回)、勤行会などがあり、外部との交流としては、瀬戸内三園合同座談会、各種行事への参加、富士大石寺への登山などを実施している。
 現在お世話になっている方は、香川県創価学会の会員、松藤欣道尊師、山本法明尊師(玉林寺)ほか。大島集会所建立以前は園内の公共建物を借用して活動していたが、建立後は安心して信行学に精進している。

(註、宗教団体小史は各宗教代表が執筆、編さん委員会で要約した)

  

「閉ざされた島の昭和史」大島青松園入所者自治会発行
昭和56年12月8日 3版発行


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