閉ざされた島の昭和史   国立療養所大島青松園 入園者自治会五十年史

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入園者の証言と生活記録

自治会創立について       石 本 俊 市

 わが大島青松園の歴史を二つに大別すると、昭和6年3月8日の“患者自治会”創立以前の20年と、それ以後とに分けて考えることができる。すくなくとも吾々病者の側から考えるとはっきりそのことが言える。ここ10年や20年前に計画的に一度に新設された療園とは異り開園以来数次に亘って増床になったもので、施設等も極めて不完備なものであるが、そもそもその出発点なり目的においても大なる違いがあって、明治42年に、四国霊場巡拝の長い間に、病気は治らず自暴自棄になって身を持ちくずし、人々にも迷惑をかけて居るような流浪病者を収容するのを第一目的として四国の地に設けられただけに、その当初は吾々病者が安心して療養生活のできる明るい平和な住みよい療園では決してなく、とばくは盛んに行なわれ、刃傷沙汰や逃走問題等々忌わしい事件が起り、そのため真面目な善良なる病友は甚だ迷惑を蒙り、実に今日からみれば想像も及ばぬほどの暗い不明朗なる療養所であった。また事業の部面に一例をとると、養鶏等も開園当初はいって来た者が個人で飼い初めたのが、そのままずっと個人経営となって残り、その収益金は全部個人収入となって居り、商売その他の事業も同じことで、物持ち、金持ちができ、恰も蟻が甘きに集まるが如く、権勢の下には尾を振って集まる者が多く、そこには自ら親分乾分の社会ができて居ったことは何の不思議もないほどである。当時は作業でも、その親分が全部権利を握り、僅か3銭の作業賃のぴんをはねて、自分はふところ手でぜいたくな生活をして居った者もある。その作業でも新患者には何ヵ月はさせないとか、何か手みやげでも持って行かねば割当ててくれなかったものである。
 また一方事務所の方においても、何か交渉やお願い事に行っても、口やかましいうるさいような者が言うことは少々無理な言文でも直に聞き入れられるけれども、おとなしい真面目な者や新患者などの言うことは、それがたとえ正しいことでも仲々通らなかった。たとえば軽症者が止むを得ぬ事情により一時帰省を願出ても、それが公平に取扱われず半年も一年も前から頼んで居る者が許可にならず、人によっては願出て2、3日のうちに帰省を許された者もあるという有様であった。これはほんの1、2の例に過ぎないが、兎に角すべてが強い者勝ちであった。私は年少にして田舎から出て、こんなおそろしいいやな暗いごたごたした所に来て、初めのうちはただ辛い悲しいで毎日泣いて暮し、望郷の念を禁ずることができず、逃走ということを真剣に考えたこともあった。とばくなども職員が巡って来てやかましく言われると一寸止めて居るが、その職員が帰ると直に集って来て開帳するという有様で、恰度蝿を追うようなものであった。
 こんな状態であったから、心ある者は憂い嘆いて、何とかしてもっと明朗な安心して生活のできる住みよい平和な療園とならぬものか……とひそかに念じ、また同志は相寄り相語っていたのである。かくするうちに与論もだんだん高まり、旧いものと新しいものとの戦いが表面化して、先ず長い間の営利事業となっていた養鶏事業を病者一同の事業として取戻し作業も誰にでも公平に割当てるようになり、すべて忌わしい事件の因となっていたとばくは各宗教団体の奮起によってその跡を断ったのである。かく記せばたいした事もなく解決したように思われるかもしれぬが、旧来の陋習を破って改革するということは言うは易くして仲々困甦なことで、ここまでこぎつけるのには並大抵の苦労ではなく複雑な感情問題も起り、烈しい戦いがあり、大きな犠牲が払われたのである。かっての親分も遂に居たたまれず逃走した者もある。
 われわれ内部の改革は、職員にのみ頼り他力本願でいては、百年経っても達せられないことは、とばくの一例によってもわかる。内部の改革はどんなに憎まれても犠牲を払っても、われわれ同志の団結の力によって成し遂げねばならぬことを、今までの事実によって深く教えられたのである。しかし旧い伝統や習慣を改めることは一朝一タにできるものではなく、そこには自ら新旧思想の戦いは益々烈しくなってきたのであるが、改革の与論もいよいよ高まりて機熟したるとき、たまたま昭和6年1月15日に突発した一事件が動機となって、改革運動の火の手があがり、ここに改革実行委員10名が挙げられて研究準備をなし、その結果昭和6年3月8日“患者自治会”の発会式を盛大に挙げるにいたったのである。この改革は病者相互の自覚により、いわゆる下から盛上る力によって起り、そして美事に成し遂げられたのである。自治会創立前までは総代、副総代の2人であったから統制のとれよう筈も、行届こう筈もない。或る時は婦人部に別に婦人総代をおいたこともあるが駄目であった。
 自治会になると同時に委員制となし、常務委員長、副委員長、常務委員をおき庶務、会計、人事、作業、殖産、購買、病室の7部(もちろん名称を改めた部もある)を設け常務委員をして各部長として担当せしめることとなったのである。その後“常務委員長”では実際に呼ぶ場合にもどうも呼びにくくきざでもあり、また部長では余り威張ったようで偉そうに聞えて親しみにくく感じが悪いからと言うので、また総代、副総代、各部主任と改めたのである。
 今日新しく入園して来られる病者たちは、開園当初からこんな所であったのかと思われるかもわからぬが、ここまで辿りつくのには決して坦々たる道ばかりではなく、多くの迂余曲折があり、大なる犠牲が払われて来たのである。自治会が創立される前とその後との事情をよく知って居られる古い病友は一入感慨深く感謝の念もまた大きいものがあると思う。自治会が一つの事業を起すのにも一銭の資金もなかったところから今日の如くになり、農園が個人所有になって居たものを園当局の御協力を得て自治会に回収し、戦時中のあの食糧不足の中にも確実な統制の下に、弱い者も平等にすべてが配給され、乏しきを分かち合うて切り抜けて来たのである。しかしこれが当然と考え、現状に満足して居る吾々ではないから、更にみんなが力を協せて努力せねばならぬ。
 自治会創立当初は小林前所長に対してもいささか無理なお願いをしたこともあるが、しかし吾々の誠意が認められ、その後小林所長は全病者に向って“自分が病気をして初めて病者の気持ちが理解できた。これまではさぞ行届かなかったことが多かったろうがゆるして貰いたい。これからはなるべく島の官舎に居って諸君と苦楽を共にする。今までは僕が悪かった……これからは諸君を紳士として待遇する“と声涙ともに下る訓示をされたことがある。所長でありながら病者の前で”僕が悪かった。ゆるしてもらいたい“と言うことは、たとえ心には思っても口にはいえないことで、吾々はその誠実と吾々の真意を正しく理解していただけた嬉しさに感極まって泣いたものである。われわれらい者といえばはるか劣等人種の如く今日でも思われて居る。先般も古雑誌を沢山集めて慰問に来て下さった或る人が”リーダーズ・ダイジェストもありますが読む人がありますかしら?、少し程度が高過ぎますから……“と付け加えられた。或いは”自分の娘か孫ほども年令の違う看護婦に侮辱された“といって憤慨して居る者もあるが、やっぱり旧い考え方は誰しもなかなか改まらないものである。吾々はたまたま不幸にして本病に冒されたのであって、健康者と病者との相違だけである。人に物を与えると何だか自分が数等えらい者のように、人の世話をすれば、世話を受ける者よりも自分の方が格段偉い者のような誤った優越感をもち易いのが人間の通念であるらしい。吾々の基本的人権は尊重され、人間としての平等と自由とは認められなければならない。しかしその平等と自主性とは吾々の不断の反省と努力とによってこれを勝ち取り保持しなければならないもので、そのためにはわれわれ病者も努めて教養を高め、人格を磨き、人に侮られぬ者とならねばならぬ。しかしてらいと言うもの、療養所というもの、またらい者に対し、自治会に対しても、社会人に正しい理解と認識とをしてもらうために努力しなければならぬ。
 わが自治会も成人したものであるから、この機会にもう一度深く反省し、自己批判をなし、創立の精神と目的とを正しく再確認して、ますます自治会の発展に努力邁進したいものである。
 終りに、かって苦労を共にした同志の大多数の者は既に死去してしまって、私としては実に感慨無量なるものがある。これら同労者の御霊の御冥福を心からお祈りするものである。

         (青松昭和26年3月号より転載、筆者、故人)
 

  

「閉ざされた島の昭和史」大島青松園入所者自治会発行
昭和56年12月8日 3版発行


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