閉ざされた島の昭和史   国立療養所大島青松園 入園者自治会五十年史

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入園者の証言と生活記録

開所当時を顧みて       岸 野 ゆ き

 私が療養所へ入所したのは、明治42年5月でした。現在では汽車にのれば僅か5時間足らずの故郷が、その頃は蒸汽船にゆられ、途中1泊の2日がかりの旅でした。
 療養所が実際に患者の収容を開始したのは、準備その他の都合で5月からでした。
 入所患者の内訳は、浮浪患者と各県からの送致者でした。私が入所したとき、患者は男8名、女2名でした。翌日島根県より20名、次の日は広島県よりといった具合で、浮浪者は俗に狩込みと言われる方法で、強制入所させられていました。しかし各県送致者も貧困者に限られていて、もしその家族に財産があれば、療養費を負担させ、又は入所していても自宅療養をすすめ、帰郷した者もありました。
 勿論、八県負担の予算にしばられての苦しい運営であったと思いますが、それにしても現在と比較すると、隔世の感がします。
 予防法が施行されたのも、日清日露の戦役に勝ち、漸くその国威を認められるようになって日本の国内に、癩者が徘徊していては威信にもかかわるとの考えから、浮浪者や貧困者のような衆人の眼にふれ易い生活状態をしている者を対象として設立されたのではないかと思います。財産のある家族では、他人の眼を恐れ、外聞をはじて、一室に閉じこめておくとか言った方法をとるので、収容する必要を感じなかったのではないかと考えられます。
 それと外国宣教師による私立病院が各所にできたことも、療養所設立の要因になったのであろうと推測されます。
 入所すると、すぐに看護婦さんが浴室へ連れて行き、入浴すると、衣類は下衣まで一切官給品に着替えさせられました。私は数え年14才でしたが、大人用の地味な柄の着物を縫い上げて貰い、下駄も大人用のしかないのでそれを履きましたが、小柄な私が履くと半分近く余っていて、随分いやなものでした。
 私物の衣類は消毒してから返してくれましたが、私は消毒されるとは知らないので、衣類といっしょに包んでいた煎豆や、菓子も消毒されてしまって残念だったことを今でもはっきり憶えています。
 父が死に、母の細腕一本で子供3人を苦労して育ててくれた母でしたが、私が発病したときはひどい落胆で、私の目には、たまらなく映りました。私は母の負担を少しでも軽くしようと、耳にした療養所へ自分から入所すると言いだしたのです。勿論母は絶対に行かせないと、相手にしませんでしたが、それでもしまいには根負けして、渋々ながら承諾しました。
 それだけに遠い所へ行く、それも再び帰って来ない我が子にとの親心からでしょう、貧しい中から随分と珍らしいものや、色々な食物を持たせてくれました。船の中で何度も食べたいと思いながら、我慢して持ってきただけに、消毒された風呂敷包を開けたときには、泣くにも泣けない気持ちでした。そして消毒した人を恨みました。
 配属された室は、少女寮はなく、不自由な人も、軽症の人もいっしょの大部屋でした。盲人、手足の悪い人は、手探りで拭掃除やその他でき得る雑用をし、軽症者がその頃は自炊でしたので、煮たき等をしていました。
 子供の私は、2日目毎に支給される主食、副食の現物を受取り、室まで運搬するのが仕事でした。風の強い日には、足許まで波の打ちよせる細い道を担い棒に石油缶の半缶を吊って通いました。
 一きれの間食がある訳ではなし、私は口寂しくなると、消毒された菓子や豆を繰返し悔みました。食べるだけが楽しみの私の毎日でしたが、主食は1日丸麦2合と米2合で、副食は、朝みそ汁、昼は野菜の煮付、晩は漬物か或いは梅干という祖末なものでした。毎月1日はその月生れの人の誕生を祝って小豆飯でした。
 入所者は浮浪者と、貧困者でしたが、浮浪者の大部分は世にいうすれからしの人達でした。無理もないことです。仏にすがって病気を治そうと信心したあげく、その効目がないどころか、益々悪化していっては絶望し自暴自棄に走るのも、一方的には責められないと思います。しかし毎日娯楽一つない味気ない生活を繰返しているうちに、賭博がひろがってきました。はじめは室でやっていましたが、やらない者から嫌われ、転々と場所が変り、しまいには山で賭博がたった事もありました。賭博がさかんになると、それに伴って喧嘩や、金銭上のいざこざも起り借金で首が廻らなくなり、島の舟を盗んで逃亡する者もありました。
 当時の事務係長は、今は故人ですが、宮内岩太郎さんでしたが非常に熱心な立派な人でした。この儘(まま)ではいけないと心配され、山の開墾をはじめられました。予定地は深く繁った松林でした。一区域が20坪で労賃は30銭で、耕作権は開墾した者にやるという条件でした。開墾して耕作する人もいましたが、なかにはやっと開墾した畑を、20銭位で売りとばして賭博をする者もありましたが、宮内さんは辛抱強く、労働できるものには開墾をすすめました。腹がへるだろうと開墾する者には1人1合の米が出て、私達若い者がそれをにぎって毎日山へ運びました。
 宮内さんは1日1度は必ず山へ来られ、理屈っぽい話ではなく、世間話の中に働く喜びを話され、みんなを励ましていました。或る日私をこっそり木蔭に呼んで、開墾している人に煙草を少しだが2本宛あげて呉れといわれました。しかし私の名はいわないようにと念を押されました。何故いってはいけないのか私は腑におちませんでしたが、それから間もなくして、宗教事件という問題が起きて、はじめて私には、あの時の宮内さんのいわれた意味が判りました。
 宮内さんは熱心なキリスト信者でした。自暴自棄になっている病者が、信仰によって救われればと、子供達には日曜学校、大人の希望者には神の道を話されました。しかし聞きにくるのは5、6人という寂しさでした。
 事務係の次席は川津さんでした。この人は又、大の仏教信者で、キリスト教をひどく嫌っていました。それだけに係長の宮内さんがキリスト教を所内に広めることを苦々しく思っていました。
 宗教思想事件という暴力行為にまで進展していったのも、職員間の勢力争いに似た宗教問題に、何も知らない患者がおどらされた恰好になったのです。
 川津さんのキリスト教排撃は、日を追って露骨になり、選んだ手段が係長追放でした。もうとっくに時効になった事件ですが、私は今でも当時を思い出すと胸が痛んできます。
 川津さんは、それを直接行なわず、このままでは、今にキリスト教の療養所にされてしまうと、浮浪者を煽動したのです。浮浪者は四国遍路として、曲りなりにも仏教を信じている者ばかりですから、深く考えもせず、行動に移ってしまったのです。たしか12月でした。赤穂浪士をきどって、47名の者が、白鉢巻、繃帯でたすきをかけ、木ぎれや棒ぎれを持って、夜の10時頃境界線を破って本館へ乗り込みましたが、居ないと判ると官舎まで押しかけましたが、官舎にも宮内さんや家族の人はいませんでした。戸やガラスを壊した位で引揚げました。平生、宮内さんは県庁への用件以外は日曜でも島におられ、私用で高松へ出られることは滅多になかったそうです。
 47人組は、その日定期船を見張って、宮内さんが乗船しないことを見届けてから押しかけたのです。係長さんの姿はどこにもありませんでした。人の噂でしたが、入所者の今は亡き三宅さんが、この空気を知って、ひそかに通報し、宮内さんは、官舎地帯の島蔭から夕暮、漁船で高松へ難をさけられたのでしたが、不幸中の幸でした。
 それから5日程して宮内さんは島に帰られ整理をすませて辞められました。尚その事件当夜宿直は医長の吉田先生でしたが、責任をとられて辞職され、後任者を吉田先生が推薦されましたが、その人が所長の小林先生でした。
 この事件を境いに職員の顔ぶれがだいぶん変り、川津さんも間もなく辞められました。キリスト教も火が消えたようになりましたが、それから3年程して讃美歌だけでも教えて貰いたいと係長さんに申し出て、こられた人が、エリクソン宣教師と宮内さんでした。宮内さんはそれ以後亡くなられるまで月に一度は必らず来島されました。
 この事件で一番がっかりしたのは私ではなかったかと思います。子供の私の仕事は、前に書いたように自炊材料の運搬でしたが、治療室へ行く時には、同室の盲のおばあさんの杖をひいて行きました。隣の室にも、めくらの年寄りがいましたが、その室には子供がいないので、頼まれるといやとはいえず細い小径を、一人を前に一人は後に、それぞれ押したり曳いたりしながら歩くのですが、今のようにゴム靴はない時代ですから、足が悪くても下駄をはいていましたから、一人がとばした下駄をやっとはかせて歩き出すと、一人の下駄が脱げたといった具合で、関節の悪かった私は、そのたびに何処へでも坐りこんでなおす始末でした。私にはそれがつらくて、入所するのではなかったと、半べそをかきながら治療室へ通っていました。
 その頃のこと、ある日宮内さんが「何かつらいことはないか」と優しくたずねてくれました。私は急に悲しくなって「二人めしいを連れて歩くのがつらいから、家に帰らしてほしい」と泣いてしまいました。二人を治療に連れて行くと昼までかかり、その間に自炊材料を室まで持って帰り、昼から学校へ行かねばならない、遊ぶ時が少しもないから、家に手紙を出して連れにきて頁うと、私は泣きじゃくりながら宮内さんに訴えました。宮内さんは「それはいかん、何とかしてあげるから暫く辛抱していなさい」と言われましたが、間もなく猿小屋のあるところへ出張治療室が出来ました。室は三方腰掛で隣は看護婦控室になっていました。そうして愈々治療開始という時になって事件が起き、宮内さんが辞められてしまうと、とうとうそこは使わずに終りました。私はそれから3年ばかり泣きべそをかきながら2人を連れて治療へ通いました。
 出張治療室は日本一小さい学校になり、看護婦控室は図書室になりましたが、現在はもう影も形もなくなっています。
 話は変りますが、療養所の揺藍時代の男女関係が、男が多く女が少いために、くじ引きで女を決めたとか、或いは順番制で20才そこそこの若い男と60近い女が内縁の夫婦になったとか伝説めいたことがいわれていますが、これは全然当っていないと思います。男女の比率は現在も当時も五十歩百歩で、強いていえば当時の方が比率が高かったと思いますが、女の意志を踏みにじって暴力的に男女が結びついたという例は全然ありませんでした。
 ボス的な患者が、自分の勢力を拡げるために、強迫的な事をいって、新患の女を、その子分といっしょにさせようと口説いたとかいった事を耳にしたことがありましたが、当の女は、自分のすきな男と夫婦になった事実からも、私は「くじ引き」「順番制」は、何かの噂が誤って今に伝わっていると思います。
 夫婦の問題にしても、厳しいもので、或る一組の夫婦がいましたが、とかく夫婦の間が面白くいっていないという噂がありましたが、或る男が女と親しくなり、男が大阪へでも逃げて行かないかと、すすめたそうです。それを運悪く夫に立聞きされた女は惨めなものでした。相当な衣類を柳行李に何杯も持っていましたが、みんな浜辺で焼かれてしまいました。衣類がなくては、まさか逃げる訳にも行くまいし、それに他への見せしめもあったのでしょう。それも俗に北海道組といわれている夫婦者の男が大部分それにくわわって、焼いたのですから、随分今思えば無茶な、徹底した制裁だったものです。
 又男は北海道組の男達に海へ放り込まれ、はい上がろうとすれば、竹や棒でなぐられ、散々な目に合った揚句、島から追放されました。三角関係などの場合も、男は追放で女はその儘(まま)いましたのも、女は少ないだけにそれだけの価値があったのかも知れません。
 患者自治会が出来るまでは、島より外へは一歩も出ることを許されませんでした。たとえ親が危篤と知らされても、子供が死んでも駄目でした。それが為に、のっぴきならない必要に追られたもの等が逃亡という非常手段を選んだのも、あながち悪いとはいいきれないと思います。
 逃走方法には小舟を盗んだり、昼間島の周辺で漁をしている漁民に連絡しておいて、夜蔭に打合わせ場所へ迎えにきて貰うとか、或いは自力で海峡を泳ぎ渡るか、三者のうちいずれかの方法がとられました。再三小舟を盗まれた島の住民は随分迷惑至極な話であったと思います。無事に手に戻ってくるのもあったが、乗棄てられて流失したり、破損された舟は相当な数に上るのではないかと思います。島民も自衛のため番をしたり、或いは又舟の中に針金をはり、それに鈴をつけそれにふれると鈴がなるように仕掛けたのもありました。鈴の音で島民は一斉に浜まで飛出してくるが、捕えたところで仕方がないので、舟さえ無事ならと、余り深追いしませんでした。
 私も2度逃走の手助けのようなことをしましたが、1度は外部から迎えにきたので舟の心配はありませんでしたが、1度は夜の12時と昼間約束し、前金まで渡してあった漁民が1時を廻っても姿をみせず、木枯の吹く浜辺で2時まで待ったのですが、とうとう来ませんでした。汐風は痛い程厳しく、たまりかねて、そこら辺りの木片を集めて、焚火をしてこごえた手足を温めはじめました。間もなく足音が聞こえ、闇の中から顔を出したのは、宿直の職員でした。不審に思うのは無理からぬ事です。「今頃焚火を囲んで何をしているか」と言ったので、とっさに「汐干狩にきたがまだ早いので火を焚いて夜の明けるのを待っている」と返事したものの、もし露見しはすまいかと、内心びくびくでした。初冬の朝汐はよく干くので汐干狩に行く者が多かった頃で、その返事で「跡始末だけは充分に気を付けるように」と立去りましたが、それにしても3時頃から夜の明ける6時すぎまで寒風にふるえながら待つという事は常識では考えられないし、それに逃走するというので4人の者も一応はこざっぱりした衣服を身につけていたのが、焚火の灯りでも識別できたはずであったし、私は多分知っていて見逃してくれたのではないかと思います。
 漁舟を諦らめ舟をうまく盗み出し、それで逃げましたが、すぐにハガキで屋島の何処に舟をつないであると知らしてきて、舟は無事に戻ってきました。
 又洗濯場の四斗樽に荷物を入れ、洗濯板や丸太を筏にして、海峡を渡ろうとした人もありましたが成功しませんでした。
 次に互助制度について少し書いてみますと、創立当時の患者の収入といえば、作業賃だけですが、それも軽症者に限られていたので、家から少しでも仕送りのあるものは別として、大部分の者は収入皆無でした、或る一組の夫婦が浮浪患者として収容されてきましたが、男はもう相当の重症で、入所間もなく亡くなりました。しかし貯えは一銭もなく、霊前に供える物は何一つ買えない状態で、それは惨めで気の毒なものでした。それを見かねた人達が、あれでは仏が余りにも可哀想だ、何とかしてあげようと相談した結果、夫婦者だけで1日分の作業賃3銭宛出し合い、ささやかながら供物を買い、野辺の送りをしましたが、これが互助のはじまりでした。それ以後作業する者は1ヵ月2銭、不自由者は1銭出し、有志の者が病棟入室者と、全く仕送りのない者に分配しましたが、1人1月10銭位の額でした。その頃当時の岡山大学々長の田中文男先生が、教え子達から謝恩か何かの御祝として貰ったからといわれて、2000円娯楽会へ寄贈されました。当時の2000円ですから大変な金額ですが、この金を田中文男先生基金として盆と正月の2回、1回宛70銭位仕送りのない不自由者に分配しましたが、この基金のお蔭で恵まれない者は随分救われました。
 開所しばらくは売店もなく、ほしい物があっても手に入れることができませんでした。それで不自由したものでしたが、そのうちに村の商店の支店のような、小さい何でも屋が職員地帯に建ちました。境界線は有棘鉄線を張っていまして、勿論店へ直接買物などとは思いもよらないことですから、境界線から店まで鳴子をつけ、用があるとそれをひく訳ですが、鳴子の音で店の誰かが、境界線までやってきて、いる品物を聞いて又店までとりに引返すから、悠長な話でした。支払方法は、各人の持っている現金を分館に預け、その額を記入した通帳をもらい、品物を買う場合それに書入れるのですから、商人の方も安心して商売ができた訳です。
 しかしその通帳制も、分館の事務が煩らわしいか何かの都合で中止になり、現金制に変り、そのうちに売店も出きて、金さえあれば品物の購入には困らなくなりました。がそのうち、前に書いた逃走者がでるようになると、園内通貨は金券になりました。現金は通用しなくなり真鍮の鍍金を打抜いた金券となり、これは長く続きましたが、金券偽造事件が起り、現金制が復活しました。
 療養所ができる以前から島に住んでいた人達は、療養所が出きると、病気を恐れていました。これは当然のことで、直接関係のない人達までが、療養所設立に、それこそ猛反対をしたのですから、直接関係のある島の人がいやがるのは無理からぬ話でした。創立当時は島の人は、それでも患者区域内の山へたき木をよくとりにきていました。その親についてくる子供が、私達の姿を見ると、訳も判らずに遠くから悪態口を叩いて、親に叱られていた事を憶えています。
 しかしそんなことも日一日と薄れ、3年目頃からは、患者区域で地曳網を曳くと、はじめ一網は、みんなに呉れたり、又一夏に2、3度は尉問だと言って地曳網を曳いて呉れました。そうなると退屈しきっている患者は網曳きを手伝ったり、島民との間は親しくなってきました。それまで職員は島外の人ばかりで島の人は1人もいませんでしたが、病気がそれ程恐しいものではないと判ってきたのか、1人2人と園へ勤める人ができてきました。秋の収穫期には、さつま芋をかますに入れ今ではもう珍らしいような猫車につんで、芋でも食べて呉れと運んで呉れた親切は、今でも楽しい思い出です。
 権現さんの祭には急造の土俵で、相撲の尉問をして呉れました。祭に招かれたお客や、祭で帰ってきた人達も、何の尉問も娯楽もない私達を、少しでも尉めになればと、力一杯、面白い相撲をみせて呉れました。
 療養所も現在では映画も月何回か見られるようになり、テレビもあり、昔とは雲泥の相違ですが、それだけ余計に、世間から一瞥も顧りみられなかった創立当初、島の人々が見せてくれた親切が今でも身にしみて有難く感じられます。

           (青松園五十年誌より転載、筆者・故人)


 

  

「閉ざされた島の昭和史」大島青松園入所者自治会発行
昭和56年12月8日 3版発行


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