閉ざされた島の昭和史   国立療養所大島青松園 入園者自治会五十年史

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入園者の証言と生活記録

わが半世紀の想い出       土 屋 弥惣治

 私が青松園に入園した昭和はじめ頃には、大島の山や海は本当にきれいで、自然そのものでした。私はここで骨になって、おさまってもよいと思うほど、その美しさに心打たれました。
 各寮舎は、現在の位置と少し変ってはおりますけれど、1寮から10寮、また11寮から16寮と現在の作業場と、僅かそれだけしかありませんでした。北のほうには女の寮が3棟ありまして、夜になると男が泊りに行った細長い夫婦寮があったのを記憶しています。私が入園して間もなく、現在の15寮あたりに2棟建ったのを覚えています。北のほうには池があり、また現在2寮、1寮のあたりに池があって、閑散とした淋しいたたずまいでした。
 私は自治会が創立された昭和6年頃には、比較的元気でありましたゆえに、実行委員が成立され、またいろいろな交渉委員が古い会館に集合して、園当局と交渉したり、たびたび会合をもってご努力された先輩のご苦労をよく承知しております。
 私は現在、盲目になってしまいましたけれど、元気で働いていた時代のことを少し述べてみたいと思います。
 その当時は、青年団、婦人会、あるいは警防団などが組織され、本当に島全体が互助相愛の精神に満ちあふれていたように思います。
 寮と寮とのあいだは、はねつるべがあって、朝早くから健康な者は炊事当番をしまして、不自由な者は軽症な者が炊事場から食事を運んでお世話しました。それも現在のような事でなくて、ガタガタの大八車でした。
 あの時代と現在とを比べますと、本当におてんとうさんとスッポンほど大きく変ってしまいました。
 私は青松園に入園したら、すぐにでも逃走して、死んでしまおうと思っていました。しかし、青松園で死ぬのはいやというような感じがありました。食物にしても、何事でも、いっさいが不自由を感じ、苦労した先輩のみなさんは、まだ沢山残っておられます。
 昭和8年に皇太子様ご誕生の記念として、千歳果樹園、三浦果樹園が開かれました。それも、みんな元気な入園者が奉仕で、黒いくろいにぎりめしを食べながら、山を開墾し、私も一緒に仕事をして、汗を流した思い出があります。あの頃の同僚や、先輩の苦労といったら、並大抵でなく、とてもとても30分や1時間で話すようなことはできません。
 その頃の私は元気でありましたゆえに、ずっと普通作業に就いておりました。作業賃といっても、それは安い最低賃金です。不自由舎の看護は1日3銭3厘、病棟が5銭、鶏舎が5銭というひどいものでした。そういう苦しい時代でありましたが、不自由で作業もできず、故郷から送金のない者は、それこそ一銭の収入もない気の毒な人のため、自治会による互助金制度が設けられ、作業をした僅かな収入のなかから、2銭とか3銭ずつ収めたことを思います。はじめの計画は全収入の1割でありましたけれども、しまいには拠金が2割、3割ぐらいになったように思います。そうして、元気な者は弱い者を看てやる、弱い者は元気な籍元にお願いする。また不自由になったら病棟に入院して、籍元が責任をもって、夜、昼面倒をみたあの互助相愛の時代のことを思いますと、いまは弱い者が隅のほうに追いこまれているような感じがしてなりません。私はもう少し相愛互助の気持ちを、口先きだけでなく、制度の上で実践して欲しいと思います。
 戦争中はあの広い畑を、僅か30人が耕作しました。その耕作者は、みな元気な者でしたので、作業は皆がいやがる肥料あげとか、年に2回なり3回なり不自由者の看護または病棟の看護にゆきました。
 自治会役員の皆さんは、長い年月のあいだには役員難など度々あって、半年ずつ交代された時もありかした。本当に過去を想い、元気な頃を思いますと、現在は結構な部屋に入れて頂いておりますけれども、人とひととの交わり、相愛互助の精神は薄れて雀の涙ほどしかないような感じがしてなりません。
 あの戦争中の物資不足のおりに、沢山の先輩の方々が亡くなってゆかれましたが、あの頃、畑や果樹園がなかったならば、もっともっと大勢の者が栄養失調でなくなったように思います。
 当時、私は不自由な妻を連れておりましたけれど、畑を作っていたおかげで、何とか急場を乗りきることができ、互いに助けあって不自由をしのぎました。私はいま73才になりましたが、当時はまだ働き盛りで、戦争に負けたらいかんというので、毎日果樹園での重労働や、防空壕掘りの手伝い、薪が入荷したならば、奉仕で割ったり、どんどんと今の汽場へ、石炭がないために木を伐採して運んだこともたびたびでした。防空ごう堀りも一ヵ所ではありません。一番大きいのは丁度現在のお大師さん(真言宗御影堂)の下のほう近くまで、距離にして何十メートルも右に、左に迷路のように堀り進んだのもありました。
 晩はまた夜警もあり、私は親しいAさんと夜警に行くと、たいてい1時間は隅から隅へと警戒に廻り、次に青年団の方に引継いでその晩は終るといったような状態でした。
 昼は魚を獲るための網引き、あるいは塩田、えんでんといっても、木を焚いて、毎日塩水を炊きつめたものが塩、それを皆に少しずつ配給するといったような状態でした。魚もあみを引いてくれた人に少しずつ分け、沢山獲れた時に、寮の順番を追って一般に配給するというような、夜も昼もあの時代の折には、みながひもじい思いをしておりました。
 あの戦争中のひどいおりには、本当に言うに言われぬ苦労がありました。火葬人がいないために、寮で順番に火葬したり、みんなで薪を割って用意したり、あの時代のことを思うと、どうしても愚痴話ばかりになります。
 あの戦争中の時代のように、腹がへっても、食べるものがなく、無我夢中で生きてきた時代のことが、却って懐しく思い出されてなりません。
 栄養失調のため、私は目をやられましたけれども、お蔭様でこれだけ長いきさせてもらい、幸せ者だと思っております。

              (青松昭和54年5月号より転載)

  

「閉ざされた島の昭和史」大島青松園入所者自治会発行
昭和56年12月8日 3版発行


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