入園者の証言と生活記録
昔の食生活について ふゆき・こういち
昭和8年頃の療養所の食生活の一端をしらべてみると、創立25年史に、「一般社会人の生活に於て、衣食住が其の大部分を占むるが如く、当所収容患者に於ても此の衣食問題は最も重要視するものにして其他に多くの娯楽を求めざる患者にとりては大いなる関心事たるは当然なり」と、美文調ではあるが当局の目的がはっきり記してある。
「他に多くの娯楽を求め得ざる患者」とは大むね盲人達の立場を指すものである。
当時の主食は男子が米麦半々の5合、女子には4合が配食されていた。何故男子と女子とはこのような差別をつけられたのか、その根拠は知らないが、大凡男子は一家の支柱として重労働するものであるという通念が基準となったのであって、男子と女子の生理的な栄養摂取量を医学的に算定した結果の差別ではなかったと思われる。何れにしても公平であるべき主食からしても差別待遇されていたことは社会一般の家父長制度が、療養所ではなく、らい収容所としての生いたちを形造って、女性の地位は男性の従属物としての見方によって決定されたようであるが、開所当時は浮浪患者が収容の対象であり、定員の大半を占めていた関係から、男性の横暴が主食の不均等を公式化したようにも考えられる。
献立はいまでも一週間毎に変更されているが、当時のなかから一部分を掲げると、月曜日-(味噌汁、汁の実水菜、香の物、梅干)これが朝で、昼は(豆腐、香の物、梅干、)夕は(高野豆腐、光石昆布、香の物、梅干)となっている。この中で香の物は朝一度に配給され、梅干は一週間分をまとめて配給されていたので、実際は一品だけということになる。
以上は普通給食の献立であり、別に重症患者給食があって、月曜日、朝(味噌海苔)昼(白魚佃煮)夕(鶏肉、馬鈴薯、玉葱)の煮付となっている。この他に栄養物として(ミルク、卵、りんご)等が配給されていた。普通給食は旧軍隊の炊事場と同様の大きな蒸気釜で一緒にたくのであるから、折角の野菜も茶色になるほどのたき方で、責重なカロリーなど全くフイになっている場合が多かった。重症患者給食は俗に病室炊事場と呼んでいるところで、患者の炊事夫がたずさわっていて、主食は米のみ1人1日3合と副食を調理していた。しかし、鶏肉や刺身のような場合はピンはねすることが特権であるようになっていたのは、軍隊の炊事軍曹の特権と類似したものであり、その上看護人にピンをはねられる仕末で重症者の口に入るときには何分の一かは減っていたことになる。しかし、重症者(昭和8年頃約70ベッド)は軽症者に直接看護してもらわねばならぬために、食物のことで心証をそこねてはあとあとまでたたる。蔭ではとやかく誹膀しても表面化することはまれであった。ここでもやはり炊事夫は炊事軍曹といっていた。
この炊事場の出来たのは昭和2年(42・5坪)陸上蒸気々罐と一緒に設置、病室附属炊事場は、それ以前の大正8年に16・5坪のものが設置された。その更に昔は自炊生活で、明治42年から大正7年までの約10年間ほどつづいたことになる。自炊時代は現品を給品所(補導部分館)でまとめて受けとっていた。自炊生活の苦しみはいまもって人々の語り草になっているが炊事場の新設以後も気罐の故障とか、釜の修理とかで1カ月ばかりも自炊の負担をこうむって苦痛の経験をなめた場合もある。
「食事時間には各舎より1名宛食事運搬車を引きて炊事場に集り来り、各舎の飯汁を受取り持ち帰るものにして患者は何れも自炊の繁雑をまぬがれる」
と大炊事場の新設を特筆してあるが、はからずも此拠にしるされている運搬用車も食生活に関係があり後日のために記しておこう。丁度2輪のねこ車か、いざり車のように車の輪は松丸太のひねくれたものを半年位水に漬けて、直径1尺5寸位に削って作り、それに直接鉄管の芯棒を通して矩形の木箱に手木をつけて、のせたものであって、費用は各室ともに個人負担で2、30円であったように思うが、当時の2、30円がどのような比重を持ったか病室看護賃が1日8銭であったことから算定してみれば判る。特技の権力をもっている大工が肩で風をきっていたわけだ。これも半年か1年も使用すると車はマメツして反動がひどく、不気味にきしった。食事の手動サイレンが鳴ると、各舎の間を縦貫しているコンクリー道路を蟻の行列のように、キィキイガツタンと頭の芯にひびの入るよな騒音をたてつづけた。しかも朝の味噌汁は反動の為揺れてこぽれ、半分位になっているほどひどい車であった。この車を使用したのは俗に健康舎と呼ばれている軽症者の入居している舎だけで、不自由舎へは日給5銭の食事運搬の作業があって、箱枠をのせた大八車に4舎分、もしくは5舎分の飯汁の桶を積んで運んだ。道路はいたんでひどいデコボコが出来ていたために反動がはげしく、汁桶には蓋がされていながら、揺れこぼれ、とびちり、飯桶の方もベトベト、不自由舎へ届く頃には汁かけ飯のようになっているときもしばしばであった。それでも結局は自炊の繁雑さにひきかえて肉体的にも気分的にも救われたが、新入園者は自炊時代の苦しかったことも知る筈がなく、まして入所したならベッド生活が出来るものと思い込んでいたし、各県の警察官が早く隔離収容して目的を果たしたいための方便に、療養所の実状を知らさなかったばかりか美しいベールをきせて吹聴し、それを信じて入所して来た新入園者は、予想に反した現実にぞっと身ぷるいしながら、がっかりするのが通り相場であった。余りにも人間放れのした生活様式であり、まるで家畜同然の行為が平然と、至極真面目に雑居していたからだ。
「おい、下駄箱から飯を出して来いよ」
各舎の部屋の隅には下駄箱と同じものが置いてあって、戸を開けた途端、洗面器にちゃんと飯が入れてある、古株連中はなんの不審もなく洗面器にとってある飯を喰う。―真っ白いベッド、清潔な蒲団、真っ白い部屋、病院特有の雰囲気を想像したのは、想像した方が勝手すぎた幻滅―。やがてこの生活に同化するにしたがって気泡のように生れて来る一般社会には通用しない独特の常識―。下駄箱と呼ばれる茶ダンスは、もともと正真正明の下駄箱であったものを、新品のうちに土間から座敷へ昇格しただけであり、洗面器も新品であるから綺麗だという筆法である。
話を食生活にもどして、当時毎月1日は赤飯が配食されていた。これはその月に生れた人々の誕生を一緒に祝う意味であった。戦争になってから食糧事情が悪化するにしたがい必然的に姿を消した。
「定期献立表によるの外、祝祭日等には夫々特別の料理を給与するを以って、僅少の患者を除く外は自宅療養中よりも御馳走なるを以て満足せる状況なり」
この記録中「僅少なる患者を除く」としてあるのは、昭和7年、予防協会相談所が建てられ、有料患者を収容していたから、無料患者と区別したものと考えられる。一時期ではあるが同じ患者でありながら無料(施料)と有料との差別は厳然としていたようだ。有産と無産との対照の明暗が、この施療患者という見方に根強くこびりついている事実も見逃がせない。祝祭日の特別料理といわれるものは「五目寿司」が殆んどであり、その他、折詰が配給になった。ちなみに昭和8年の特別食の中から若千枝萃すると、
折 詰―5回(1回につき) 50銭
牡丹餅―1回 20銭
祝 餅―2回(1回につき) 25銭
善 哉―2回(1回につき) 3銭
餡パン―1回 10銭
以上が主なものであるが「折詰」等は1ヵ所の仕出屋からではなく「わた屋」「亀屋」「東屋」の三ヵ所が何時も入札していたから品質もまちまちで、おそらく平均値は50銭であったかも知れないが上下があったことと思われる。
「折詰」は早速くじ引きで割当られた。なんでも公平に配分することの出来ないものは、花札式に名札を配るのである。魚の煮付などもくじである。入園者が定員いっぱいになって、新入園者の入室の余地のなくなったときとか、ひとにきらわれるように悪いくせのあるものの転室などもくじである。グループで死くじをしたということもあるほどだから、共同生活の均衡をはかるための方法としてはくじ引制度がもっとも多く利用され、機会均等の名分をもとにその決定権を持っていることは昔も今も変らない。くじ引制度を廃止してもよい療養所が実現したとしたら、それこそ完全な療養形態となるであろうが、とてもそれは5年、10年のうちに実現しないであろう。ともあれ「折詰」が配給されると、ほどなくブローカーが売りに来た。公然と許可されていたのではなく、いずれもぬけでやっていた。昭和18、9年頃には暗黙のうちの公認のようなぐあいになったが、官給品や統制品は絶対に売買してはならぬ建前になっていた。しかし、そうした申合せも再三再四違反したり暴利をむさぽるので、とうとうブローカー禁止となり、それにかわって交換市(古物)というものが自治会後援のもとに開かれるようになった。けれども食品類は出る筈もなく、相変らず物々交換によって官給品と食品などは横流れした。無論、ブローカーの利益はバカにならぬもので、売方と買方の両方から利ざやをかせいでいたのである。そのようなブローカーの持ち込む「折詰」は1ト箱20銭から25銭位であったが、売方はたいてい不自由者であった。折詰はすかぬからという振れ込みであったが、不自由者は園内作業をするにも体力がなく、まして家族からの送金のないものは、自治会より支給される1ヵ月約40銭(昭和8年)の互助金では通信費、煙草代、生活必需品の補給などにはとても足らなかったために切羽詰ってブローカーに頼んで「折詰」や「衣類」など売り、もっと重要なものの購入、いろいろと面倒を看てもらう人への心附け、または扶養家族の生活補助などの資金を得る手段としていたのだ。患者売店の当時の売上高を調査すると、1ヵ月1人当り1円程度となっているから、それとこれとを考え合せると小遣銭の捻出方法は単純ではなかった。
特別食はこの外に季節の果物があった。
富有柿 1回 32銭
梨 1回 30銭
桃 1回 20銭
これ等がそのうち代表的なものだが1回の配給量は300匁に決っていた。この特別食といわれるものや栄養品などは、日頃の食費のなかから何割かを残してまかなわれたものであって、別種の予算があったわけでなく、戦争が拡大してゆくにつれて殆んどなくなった。そのために患者自治会の直営となっていた千歳果樹園(皇太子御誕生日に作ったもの)が唯一のフルーツの補給源となった。
戦争の拡大と、食生活の窮乏―。これほど密接な関係はない。副食物は目にみえて粗悪なものになったが、主食の方はどうにか確保されたものの米麦5分であったものが7分3分になり、待望していた8県連合立であったこの療養所が昭和16年7月に国立に移管された欣びも束の問、食糧事情はますます逼迫した。昭和18年頃には3日間味噌汁なしのときがあったり、漬物なども「最早倉庫になし」の状態にもなった。農耕地の盗難は毎夜のようにつづき、同年の11月20日には「玄米食2合3勺」となっている。しかも、大炊事場では目方によって配食していたこととて「1日分2合3勺、213匁9分、1食分71匁強なり、但し炊き方により相違あり」まことに細微にわたっている。だから水をたっぷり入れて炊かれたものである。そうして目方によって配食されたものを各室では更に1人分の目方によってわけた。くじ引制は漸次姿を消した。主食の配給量に対しては目の色がかわっていた。代用食や芋なども台所で盗難にあい、すったもんだの挙句に犯人を挙げて室を迫放したり、その原因が甘藷一つ盗んだということであったりした。昭和19年はますます窮迫した。副食は1日1度塩であったこともある。島の段々畑は拡張につぐ拡張、食糧増産が最大の目的で、傷のある手足などいたわるようなことは出米なかった。甘藷も馬鈴薯もすべて多収量が目的であった。桜島大根もつくられた。1株3貫4貫の甘藷が自慢になった。食物は何時もシャブシャブの雑炊で、殆んど海水が使用された。塩だけは沢山あるというのがせめてもの尉めとなった。元気なものは増産や横穴式の防空壕掘りに出て不自由なものは雑炊に入れる青草を探したり、海へ行って海苔やニナ、貝掘り、なまこ獲りなどした。白菜の根や甘藷の蔓、馬鈴薯の茎まで食べた。草はひずり草、日照草、浜アカザ、防風など大凡胃のうけつけてくれるものを口から流し込んだという方が適切であるかも知れない。職員地帯の方から紛れて来る犬をつかまえたり、猫を殺したり、ねずみや蛙なども動物性蛋白となった。猫をきれいに殺したので今度はねずみが出て来た。夜中に脚を噛られたりして大騒動したこともある。この年の死亡者が94人あって、前後45年の間、これはどの死亡者のあった例のないことからしてもその生活の内容の一面がうかがわれるのである。
昭和20年8月15日の敗戦。
不安と混乱。ぶよぶよに膨れた胃をかかえて栄養失調を呈した無表情な顔の中で眼がぎらぎらとむき出し、口は食物ときいただけで上下した。昭和22年も終りの12月、ララ物資が届けられた。ようやく人間らしい表情がかえって来たのである。
(青松昭和29年11月号より転載)
|