第一章 島のあけぼの
3 虚々実々
カン、カン、カン、金槌でレールが叩かれた。大島のことが新聞に出て、県庁の衛生課長が話をききに来たげなー。期待と物珍しさでみな会堂へ押しかけた。給品所の所員が駈けつけ、あわてて上下段の境界の木柵を外した。
この患者総会にひとしい席上で、初めて去る16日決議した改革運勤のやむなき17項目の理由を、実行委員10名が分担して説明した。管理県の知事に代わる責任者として衛生課長の出席を得たからである。
課長は各委員の説明に耳をかたむけ、ときどき手帳にメモをとった。説明は延々と5時までつづいたが、特別の用事で起つ者は別として一同謹聴し、ときに悲憤の涙を拭いた。だれにも覚えのある事柄である。説明は抽象的言葉をさけ、具体例をあげて聞く者に思わず襟(えり)を正させる説得力を持った。真実にまさる雄弁のないことを、10人の委員は事実をもって説明した。
課長は説明をききおわると、敬虔(けいけん)な面持ちで起った。
「みなさんのお話はよく分かりました。帰って長官ともよく相談し、微力をつくしてご期待にそいたい。どうか愛生園へ転送だけは思い止まっていただきたい。寒いときでありますから、くれぐれもお体に気をつけて下さい」
一同にそう挨拶し、最後に実行委員と一週間後の再見を約束して出ていった。
「全患者衛生課長ノ帰庁ヲ見送ル。
大島未曽有ノ感激ナリ。
各室二歓声上ル、持二青年団本部二歓声アガル(実行委員会日誌1月22日)」
当時の青年団本部は綿打場で、そのあとへ加工部が建った。
25日には青年団主催の「大島改革運動激励雄弁大会」が華々しく開催された。課長の来島で作戦が成功し、気をよくした景気づけであったろう。弁士21名、顧問から実行委員まで、はからずもオールスターの時ならぬ揃い踏みとなって湧き立った。
「吾等ノ島ヲヨリヨクヨリ明ルク改革センガタメニ衷心二燃ユル熱情ハ焔トナリテ天二冲(チュウ)シ、一片耿々(シュウシュウ)ノ誠意ホトバシリテ熱鉄ヲモ熔(ト)カス雄弁トナリ或ハ慷慨(コウガイ)トナリ、激励トナリ悲憤トナリ満堂タダコレ熱卜力二渦巻キ遂二飛入リシテ大川綱一、小島牧羊、守山大二郎、石本俊市壇上二熱弁ヲ揮(フル)ヒ世捨人ノ孤島ニモ時代ノ波ノ打チ寄セテ画期的ナル第一声ヲ挙ゲシム」
このように実行委員会日誌まで興奮している。
突然、清水衛生課長が来島し、午後3時から会いたいといって来た。全患者の前で17項目にわたる理由を説明したとき、一週間後の再会を約しいまだ4日しかたっていない。何か新しい事態が起きたのでは……。
とにかく会った。課長は今回の改革運動は、皇太后様の御下賜金の扱いに対する不満が原因ではないかとただした。委員たちには意外であった。
実はこのことについては2日前、乙竹係長から同じ質問を受けた。全然無関係なので理解できなかった。これはもはや去年の11月のことである。皇太后様がら24万円救らい事業にいただき、うち大島療養所分の3000円は、慰籍会に編入ずみである。所長からそのような話があり、一同ありがたいことだと思っていた。とやかくいう筋合のものでなかった。それをここでまたきかれる。係長が耳に入れたのだろう。考えられるのは慰籍会会計は発表されなかったから、使途にやましい点があり、患者にもれているのでないかという懸念。いま一つは御下賜金の不満にかけて不敬呼ばわりし、患者を陥入れようとのたくらみだ。
「御下賜金の扱いに不満などと、そのようなご質問自体、あまりにおそれ多い」
と石本たちは係長に答えたと同様、課長にも無関係を強調して否定した。課長は安心した様子であった。
次に課長は愛生園へ転送は不可能だと前置きし、所長以下所員の更迭は情において忍びない。改革は一挙でなく徐徐に行ないたい。ぼくに無条件で一任してもらえないか。生活改善は衛生課長として責任をもって実行する。もし実の上がらないときは、何回でも改革運動をして下さい。どうか、これだけをみなさんとよく相談していただきたいと話した。
課長のこの申入れに対し、石本は次の如く答えてその日の会見を終わった。
「ご厚意は感謝するが、無条件一任はいまの段階では一同に諮るまでもない。しかし強(た)ってのお話なので相談してみます」
課長の帰りを見送ると委員たちは、早速本部で協議した。
答えは3つしかない。
一、あくまで改革運動をつづけ、目的の達成を期す。
二、課長を信頼して無条件で一任する。
三、何らかの条件をつけて一任する。
ところがその席でひと昧違う意見が出た。転送が不可能なら、四国中国連合八県で出身患者を引取ってもらう。そしていきさつを各県庁へ書き送るというのである。これがみなの気を引いた。道理のようでも実現しないのが分かっている。だから安心して押せる。いきさつを書いて送られては、各県から管理県は何をしている、安心して患者が委託できないと、こんどは香川県庁の面目丸潰れである。面白いではないかとなった。
この案は駄々っ子の無いものねだりの感がないでもない。しかし、このような奇抜な方向転換は、内部的には解決への過程で、強硬派をなだめる重要なクッションの役割りを果たした。
「さすがに巧いことを考えやがる」
とみな感心した。その半面、東北関東九州の出身者は苦笑した。おれはどこの県が引取ってくれるのかようー。
改革運動がいよいよ重大な局面をむかえ、課長に対する返答もさることながら、委員たちは苦慮した。すでに10日を過ぎるが所員が返還した作業に手をつけないため、各方面に深刻な影響が出はじめた。大根漬けのような作業は青年団にたのめるが、そうできない作業が幾らでもある。放っておけない分から奉仕でと、休んでいた小学校も先生に授業を始めてもらった。病室炊事も始めた。ここは所員の炊事夫の煮炊きした三度の食事から病室分を一括してもらい、各病棟の看護人に分けるのと、おかゆの煮炊きをした。
さらに作業をしてないから作業賃(報酬といった)はもらえない。作業賃だけが頼りの者。作業賃のうちから各人が拠出して、送金のない作業のできない貧困者に渡す互助金(当時昼30銭)もまた止まる。これらは大問題であった。
実行委員会は英断を下した。売店益金から毎年末に支給していた慰安金を、繰上げて1人50銭あて支給した。そして29日患者一同列席の上、石本委員長から清水課長に返答した。各県の出身患者引取りと、事ここに至った顛末(てんまつ)書の各県庁宛発送を……。
さすがの課長もこれは予期してなかったとみえ、意外という顔をした。沈んだ声でさとすようにいった。
「ぼくは皆さんにお願いしたい。条件付きの無条件一任という意味を、再考三考願いたい。所長以下所員の更迭は今すぐでなく、時期の問題とお考え願いたい。各県で出身患者を引取れといわれても、これまたできぬ相談で、ぼくが責任をもってご期待にそうよう努力しますから、各県宛の顛末書発送は思い止まっていただきたい」
良くいえば声涙下るであり、悪くいえばそんなことされて、ぼくの立場はどうなるである。委員たちは即答できなかった。課長との会見を中止して退席を願い、その場で全員懇談に入った。例によって硬軟両派入り乱れ、とても一本にまとまる雰囲気ではない。そのいっぽうで当局は返還した作業を放任している。この責任はどうなるのか。所長はよろこんで愛生園へ送ると約束しながら、そのご一度も顔を出さない。所長に出てもらえと委員たちを追及する。ついに各県の出身患者引取りと顛末書発送に加えて、当局の作業放任と小林所長の出席に絞り、再度押すことになった。
ふたたび課長の出席を願い、4点を順に各委員から追及した。課長の答えは次の通りであった。
一、各県の出身者引取りは長官の意向もあるが不可能。
顛末書の発送は思い止まってほしい。
二、所長との会見はいましばらく待ってもらいたい。
三、作業返還後の件についてはただちに当局と相談する
課長は一時間のゆうよを請い退席した。一同侍っていると、相談が長引くからひとまず散会してくれと連絡があった。またしばらくすると、今日は時間がないから、明日改めてお会いすると伝えてきた。
その晩、実行委員会は顧問を加え、深夜におよぶまで協議した。先にもふれたように発電機の故障で電灯がつかず、小皿のタネ油に灯芯を燃やした暗い明かりの下である。相変わらず硬軟とり交ぜて議論は沸騰したが、結局5つの条件をつけて妥協することに決した。 翌30日、各室選出の補佐委員70名を招集し、つづけて患者総会をひらき、ともに5つの条件付き妥協案を示して同意をとりつけた。両方ともすんなり運んだわけでなく、委員たちの懸命の説得によってである。事実作業返還にともなう内部事情は、勇ましいことばかりいっておられなかった。強硬派にもそれは分かっている。まして改革運動をつづけて、望みどおりになる保証はない。しかし所長始め更迭を要求した所員が、いつまでも居座るとも思えなかった。ここは一つ課長の意のあるところを察し、どこで鉾(ほこ)を収めるか。これが代表である実行委員に課せられた重大事であった。
翌日、課長を侍ったが何の連絡もなく、むなしく暮れた。いまなら電話できけるが、それは1年後の海底電話線敷設を待つしかなかった。
いよいよ1月最後の31日を迎えた。週末の土曜で、照ったりかげったりの寒い日であった。いまだどこにも春の気配は見えず、わずかにキリスト教の教会(現青松編集室)前の一株の山茶花が、紅い花をつけていた。
実行委員たちは全患者の期待と付託にこたえるべく、11時から課長と会った。ところが河としたことか、警部と刑事と末沢書記が陪席(ばいせき)した。会堂の周囲は官私服の警官約40名、ものものしく警戒する。
課長は委員たちに昨日来られなかったのを詫び、各県の出身患者引取りと顛末書の発送を共に拒否した。
「ぼくが斯くまで誠意をつくして腹心を諸君の内におき今日におよんだが、役所の者と同じ穴の狐と疑われるのは心外である。もし諸君がぼくの調停に不同意なら、手を引く以外ない。そうなれば当然、無理解な警察部の手によって解決される。それはぼくの本意ではない。どうかいまいちど篤(とく)とご相談願いたい」
石本は委員たちに諮り(はかり)、課長と懇談したいと申入れ、陪席3名の退席を要請して同意を得た。石本は12名の姿が外に消えるのを待ち
「妥協は決して不可能とは考えていません。課長の誠意は充分わかっています。課長の他に調停者を求めようとは、毛頭思っていません。ついてはもう一度、次のことをお考えいただきたい」と昨日補佐委員会および患者総会の同意を得た、5つの条件を提示した。
一、所長と医長を分離し、当分課長をもって所長を兼任されたい。ただし実質的であれば形式は問わない。
二、所長は自らの失言を取消すこと(愛生園転送の件)
三、現所長在任中は死体の解剖をゆるさない。
四、多田会計主任、末沢戸籍係、寿船長の即時更迭。
五、その他の職員の更迭を一ヶ月以内に断行されたい。これに対する課長の回答。
一に異存はないが所長と関係があるから、いちおう会ってきめる。
二と三は承諾。
四と五の所員更迭は返事できない。しかし諸君の意にそうよう努力する。
委員たちは不満であるが課長のこの回答を信頼し、無条件一任と決した。外では警官と青年団が対峙(たいじ)して不穏のきざしがあり、2、3の委員が飛び出して行った。青年団をなだめ警官には給品所の前まで、退いてもらってことなきを得た。
おもえば15日間のあわただしい改革運動であった。当時は世話になる身でという思いが強かった。しかし大島療養所が開所以来20年間温存したウミを、一挙に出したといえる。明治末から大正へかけて警察部による警官上がりによって、僻地(へきち)をかくれ蓑(みの)として築かれた患者不在の官僚的秩序が、脱皮を迫られたのである。
上った坂は下りたが、それが前と同じ場所であっては意味がない。患者も多くのものを学んだが、それにも増して所長以下所員がもっと多くを学んだろう。警官を呼んだのは当局主脳部で、それに課長の同意であろう。でなければ断れる。彼は1月末の明日は日曜という31日を選んで、最後の折衝を決意した。
「ぼくの調停に不同意なら手を引く。あとは無理解な警察部の手で解決されよう。それはぼくの本意ではないが」
この切り札のバックに実は警官を導入した。実行委員が課長の言葉に惘喝(どうかつ)されたわけではない。総会の同意まで得た既定の路線であった。昭和44年「青松」9月号に職員の故奥村竹一氏が、翁時を回想して書いている。
「善通寺の第十一連隊に入営中、父の病気見舞のため帰島すると、自治会を創る問題で騒勤しているとのことでした。高松の警察から三十人位南の裏山から上陸し、病友の幹部を逮捕するため、職員は指名された人をつかまえるべく命令が出ていたそうです。村人は患者さんが竹槍(たけやり)を作って官舎地帯に攻めてくるから用心せねばいけないと、また構内にはだれも入れないように警戒しているといううわさが流れていた。早速、親友の佐々木光利さん(注、実行委員)に会って話したところ、とんでもない。私が案内してあげるといって北海道(注、患者地区の最北端)から山道を散歩しながら話してみると、恐怖感はチョッピリもなかった。そんなことがあって三月八日に自治会が創立された」
注、改革運動を自治会を創るためのように書かれているが、直後に自治会が生れたから、回想してそうなったのだろう。しかし佐々木光利が自治会の必要を話したであろうことは想像される。
竹槍で官舎地帯を攻めて来ると誰が臆面(おくめん)もなくうわさを流して、村人の恐怖感をあふつたのか。先の新聞記事の、「鎮撫して上京」と決して無縁ではない。当局にとって改革運動では都合が悪かった。慰撫や慰留でなく鎮撫にしたのも、改革運動を患者の騒動か暴動にしたかった。村人の恐怖感をあふったのも、不必要な警官の導入も、すべてそのための偽装である。当局は何としても理不尽な患者の騒動か暴動にして、自分たちの免罪符を手にしたかった。
改革運動を記事にした当時の新聞が3、4あるが、土陽新聞(高知)が比較的正確に伝えている。なかには患者中のインテリが同人誌「霊交」を編集発行し、その印刷に輪転機の購入を当局に要求し、といった小説以上のものもあって恐れいる。あまりにバカらしいので略した。「霊交」はキリスト教霊交会の機関誌で、長田穂波編集による純宗教誌(タブロイド版)であった。
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