閉ざされた島の昭和史   国立療養所大島青松園 入園者自治会五十年史

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第二章
 道はるかなり

 4 自治会誕生(昭和6年)

 改革運動はいちおう落着した。あとは調停者である清水衛生課長の手腕を注視するしかない。15日間の空白をおいて2月1日から、前通り患者作業が始まった。3銭~5銭(一日)の作業賃が、大半の者の小遺いなのである。一本のゴールデンバットを三切れに吸い、一本丸ごと吸える身分になりたかった。
 作業をするみなの面上に活気がみなぎった。働くよろこびに加えて改革運動を通じ、将来に夢と希望をもった。これに反し実行委員、臨時青年団、各室選出の補佐員はいちおうの任務を終わった。しかし一同の要望に応え、こんどは内部の改革に取組んだ。
 その口火を切ったのが、清水衛生課長の患者地区全域の視察である。まず実態を知る。これは課長の誠実さから発したと思われる。実行委員が案内に立って説明し、その一方的でない証(あかし)に乙竹係長を同行した。
 課長は棟から棟へ室から室へと、洗濯物の下がる物干竿の下をくぐって見て歩いた。そして得心のいくまで説明を求め、不審の点は遠慮なく質問した。従来の視察は予防着にマスク、帽子にゴムの長靴で会堂のラジオではないが、所員の一方的説明を聞き、中央の道路を南北に抜けるだけである。それに比し課長は、永年に所員さえ見せたことのない熱心さである。委員たちはすっかり感激した。3時間にわたる長い視察を終え、課長は最後に本部に上がって休憩した。それがまた感激に輪をかけ、ニュースとなって島中を駈けまわった。
 連日、本部では委員会が聞かれた。自治会会則の草案起草である。かねて大阪外島保養院の病友から送ってもらった、自治会会則が参考にされた。外島の患者自治会は大正11年(1922)の創立である。執行部と審議機関としての評議員会、室長会、患者総会と基本的構想は前から考えていた。問題は規定や細則の段階で、大島20年の伝統と習慣のうちから、何を抑えなにを活かして伸ばすかで、物事は最初が大切である。
 いっぽう、所員の態度にはかなり顕著な変化が見られた。詰まったパイプが通ったように、山積した懸案が解決しだした。特に改革運動の理由となった17項目は、課長から全所員に伝えられたとみえ、非を認めて陳謝するなり、陳謝はなくてもほぼ全面的に改善された。これは大きな成功であった。
 なお病室一棟の新築にあたり、野島医長から設計図の内示を得た。実行委員会が使用上の利便を考えて検討し、設計図を変更したのは一つの新例を開いたといえよう。
 2月15日、改革運動の労をねぎらい、午前3時から会堂で盛大な餅つきをした。青年団始め元気な者総出である。413名に1人当たり一升餅(1・4㌔)四石二斗のもち米で、約200うすとなる。会堂入り口にかまどを築き、大釜をかけて蒸寵(せいろう)を重ね、景気よく薪木(たきぎ)を焚いて蒸気を立てた。上がるはしから会堂の土間にすえた3つのうすで三木杵(きね)、二本杵、一本杵と掛声勇ましくつき上げた。初めから終わりまで杵を取ってはなさぬ、意地っ張りの年寄りもいた。
 腹がへっては戦にならぬと炊出ししてにぎり飯に大根なますを備え、勝手に食って頑張った。丸餅にするため女たちも大変で、熱いつき立てをちぎるため、おや指の根元に火傷をする者もいた。少年少女も総出で手伝った。もみ上げるはしから運び、広い会堂中の床板に敷いた戸板の上にならべた、どの子もとり粉をかぶって真っ白である。賑やかでたのしい、島で初めての餅つきであった。不幸な病のとりもつ縁で410余人一つ釜の飯を食い、悲喜を共にして助け合い励ましあい、不幸の中から大きなよろこびを育てようとする。悲しみの涙でさえ目に光る。大きな会堂の内外は湯気でかすみ、かまどで焚く火は照り返って時ならぬ豪華な不夜城を現出し、一年中で一番寒いこの季節に、鬼のような裸が出てウロウロした。
この餅つきの費用の出所がまた美談である。改革運動15日間の青年団始め、多くの病友の奉仕に対する謝礼金が、受取ってもらえずそのまま当てられた。不自由室全員がお手伝いできないからと、10銭宛きょ出した何かの足しにというお金もふくまれた。不足分だけ売店益金から支出された。この清廉(せいれん)、いかに改革運動が純粋なものであったか想像されよう。
 ようやく自治会会則草案の起草を終わった。騰写刷りして製本し、患者総会にかけて承認を得た。驚くべきスピードで2月24日であった。新聞記者が訪ねてき、本部の前で委員の説明をきいた。
 自治会を組織し/悪弊を改善/大島療養所の/患者が自発的に計画、と二段組み四行の見出しとなって報道された(新聞名不明)。
  「レプラ患者四百余名がストライキを惹起(じゃっき)した世捨島四国中国八県連合立香川県大島療養所で患者の要求が認められて円満解決したので患者は自発的に内部の大改革を行なうこととなり全患者を会員とする大島自治会を組織し会則を制定して執行委員会と評議員会との二つの制度を設けてこれをさらに人事、作業、事業、配給、食糧、娯楽の六部に分かって委員長および副委員長を選挙して所内の悪弊ならびに待遇などにつき改善し共同の利益に向かって邁進(まいしん)することになった」
 この記事は珍しく正確である。参考までに記すと、会計は副委員長が受持った。新聞記事通り執行部内を6部に分けて各委員が分担し、次に各部の内規と細則を起草した。全部終了し患者総会の承認を得たのが3月7日である。翌8日9時から実行委員は本部に集合し、制定された自治会会則による第一回役員選挙を行なった。
 委員長石本俊市、副委員長上本隆重以下6人の執行委員をまず選出した。いまとちがい所内放送ができないから、決まるはしから触れて回わって次にかかるわけで、大変なことである。役員の任期は6ヵ月であった。
 3月8日、臨時青年団もいったん解散し、新しく制定された団則に従って、役員選挙を行なった。同じ普通室男子の年齢に制限しない任意制で、前にくらべて大きな違いは、執行委員長の団長兼任である。副団長には前団長の大野鶴一が選ばれた。これはおそらく改革運動中の経験から、そのほうが奉仕活動などに動員力があると見たのである。この兼任は一期で改正される。青年団は大島相愛青年団と命名された。
 さいわい当局からピンポンとテニス用具一式買ってもらい、青年団の保管とした。ピンポン台は会堂に据え、毎日朝からピンポン、ピンポンと倦きもせずやった。蓄音機と25枚のレコードも買ってもらった。新式の箱型でどちらも17項目中の娯楽不設備の件を考慮してである。
 「本日○時から会堂で蓄音機をかけますから、みなさん聞きにきて下さい」
 本部の雑用係が各室を触れて回わって披露したあと、娯楽部で保管した。一棟二室から申出れば娯楽部長が出張してかけて聞かせた。これは手間をとるので、やがてあいてさえおればいつでも誰にも貸出すようになった。レコードは浪曲、漫才。流行歌には「君恋し」「祗園小唄」などがあった。
 ちょうどそのころ若い守屋睦夫医員が赴任して未、宗内医員から紹介された(3・31.。後の邑久光明園長)。青年団幹部は蓄音機とレコードを炊事車にのせて病室中をかけて回わり、病人からも看護人からも大変よろこばれた。
 潮風がなごみ、日だまりのつつじがちらほら咲き初めると、毎年4月1日の開所記念日を迎える。自治会創立初めての開所記念日である。何か特別の献立てをあてにしていると、例年通り折詰は出たが、赤飯のはずがいつもと変わりない半麦飯(一日男5合、女4合米麦半々)でガッカリした。室長が集まり、本部を訪ねて抗議した。食糧部長もきいてないから早速、桑島食糧係に会って質(ただ)した。「変更するなら、前もって知らせてもらわないと困る」―。相談の結果、3日の青年団主催のテニス大会を、赤飯にすることでケリがついた。
 貧困者の中には年に一度の開所記念日の折詰さえ売る者がいた。20銭~25銭である。ハガキ1銭5厘、切手3銭、ゴールデンバットなら3箱か4箱買えた。予定通り3日には赤飯でテニス大会(テニスコートが現図書室辺にあった)があり、4日には開所記念余興として、講談師の神田伯龍と浪曲の寿々木米若その他の慰問があった。伯龍は「肥後の駒下駄」、米若は「佐渡情話」を口演し、一同その名人芸にすっかり感心した。
 清水衛生課長が来島した。課長は改革運動の理由17項目はいずれもいちおう改善されたはずだから、このさい所長始め所員一同に対し、お詫びするよう委員たちに勧告した。これは意外であった。非は当局にあってそれを認めたからこそ改善された。17項目のどの一つも、決して無理な願いではない。至極当然のことである。それを詫びねばならぬとは妙な話である。患者の分際でお上(おかみ)に楯突いたというのであろう。委員たちは協議の結果、何もいわず黙って詫びることにした。後々のことを考えてであった。
 するとこんどは所当局が急に高姿勢で出て来た。自治会会則中の「執行」という文字と、沿革を述べたうちの「当局ノ指導慰籍其宜敷ヲ得ズ」を削除するよういってきた。委員たちは返事をするのも苦々(にがにが)しい。適当に放っておき、再三再四の要求があったのち総会の承認を得て「執行」を常務と変え、後者は削除した。
 17項目中の養豚事業も許可になり、いよいよ始まった。場所は現在の相愛の道の東西分岐点下西側である。病友のもつ畑の耕作権を買上げ、後ろの山を青年団が奉仕で切り崩してならし豚舎を建てた。仔豚5匹35円で買った。広い柵の中に放し飼いされた仔豚は、よろこんで走りまわった。隔離されて有刺鉄線から外へ出られない身には、仔豚のそのよろこびが分かる気がした。
 去年の11月、皇太后様から御下賜の3000円は、慰籍会に納められたと先に書いた。それがこの期になって急に伝達式を行ない、一人2円あて分配するとなった。予期してない金なので一同よろこんだが、それにしても事情のありそうな措置であった。
 ところが伝達式がすんでから一人の年寄りが会堂の窓ガラス47枚、竹竿で叩き割って一同を驚かせた。人事部長が見つけて止めたら、なおいきり立って割ったという。原因は会堂の上下段の境界に真宗は阿弥陀(あみだ)さん、日蓮宗はその左側に日蓮さんを祀り、信者が朝夕詣っていた。この二つの仏壇を県のおえら方も列席する伝達式とて、無断で片側へ寄せたのが、日蓮信者の一徹な爺さんの頭にきた。
 当局は即時追放を主張した。常務委員会は年寄りだし後悔しているから、もっと軽い処分をと対立した。日ごろは好々爺だけに同室の者やその他にも、軽い処分をと嘆願する者がいた。スッタモンダの末、当局は断乎追放処分にした。権力を笠によわい年寄りを追放することで、改革運動以来低下した威信を当局が回復しようとした感があった。
 この一件で正副委員長は責任を感じ、評議員会に辞表を提出した。評議員議長は総会の議長を兼ねた。議長三宅吉之治は総会を招集して諮り、それにはおよばずとなり、委員長は人事部長を更迭して落着した。
 慰問者のある度に正副委員長は交替で出席し、最後に一同を代表して謝辞をのべた(毎月恒例の布教は略)。これが自治会創立以来の慣例となった。慰問者は元より寄付金、慰問品等、氏名、金額、数量全部明確に知らされるようになり、その礼状を病友一同の名で書いて出すのもまた同じであった。
 正副委員長は慰問のたびに会堂の一番前に座るため、膝がくずせず慣れないと足がしびれて痛かった。大勢出席している日はいいが、少人数だと気がひけた。松の新芽がツイツイ伸びるころともなると、長い説教に座ったまま眠りころげる者が出た。おまけに夢うつつで「ああ、ねむたい」と思わず口走る者もいた。周囲は吹き出し、坊さんは腹を立てて説教をやめたりした。人に説教はしても、そんなとき笑ってすませるほどには、なかなかなれないらしい。
 増員で山を削って昭和舎と呼ばれた六棟十二室新築することとなった。原野という土建屋が請負って、北海道との間の山を切り崩し、トロッコで土を東海岸へ棄てた。土地の巾がなく海岸の砂浜を少し埋立てないと、六棟の東側に道路がつけられない。患者も毎日何人か出て、その棄土のトロッコを押した。勝手に雇われるのでなく原野から明日は何名と作業部へ連絡し、作業部が本人の都合をきいて公平に出した。
 山を切り崩すにはコツがある。上から崩さず、下からツルハシで切って上へ崩していく。さすが健康者は力があり、手も足も強く腰のすわりが違う。ツルハシを横振りに樫の木の柄が撓う(しなう)ほど、石のように固いマサ土の山膚に叩きつけて切っていく。ひまな連中がいて毎日見物に出かけた。それもだまって見るならいいが、なかにはいちいち指図がましい口出しをする。相手は気を悪くして作業部へ申出たため、異例の注意となった。「見物に行くのはかまいませんが、はたからいちいち口出ししないで下さい」
 これでお節介な口出しはやまったが、やまないのは砂浜に棄てる山土で、打ちよせる波がはしからさらって行く。ために北海道への道は足元が悪く、夜は危くて歩けない。コンクリートの防波堤が必要となり、すでに南から5、60米ほどでき上がっていた。
 「セメントもロクに入れてない、あんな煎餅(せんべい)みてえな薄い防波堤じゃ、嵐が来たらぺちゃんこじゃ」
 口々に話していた。嵐に崩壊するさまが見たかった。するとその楽しんで待った嵐がきた(5、16)。前の晩から風雨がつのり、涛々(とうとう)と押し寄せる激浪はコンクリートの防波堤に砕け散った。飛沫は横ざまに叩きつける雨と共に、夜目にも白く山上へ吹き飛ばされる。わが身に被害さえ無ければ、実に壮観である。これで防波堤は大丈夫だと変な安心をし、明日の朝をたのしみに寝た。
 夜が明けると嵐は鎮まった。思った通り防波堤は折れて倒れて砕け散り、見るも無残な全壊である。嵐の後の間をおいて押しよせる大きなうねりが、伸び上がり伸び上がり洗っていた。エ事の請負いは高さ厚さ、鉄筋何本、後ろの控えは幾らときめるものである。どんな防波堤ができていようと無関心な、典型的お役所仕事であった。療棟が建った後であったら大変である。みな神風が吹いたとよろこんだ。
 ところがこの工事にはさらにおまけがついた。患者が毎日土方作業をしてトロッコを押したのに、労賃が遅延して支払われない。これでは出て働く者はいないし、作業部は出すわけにいかない。ましていままで何十人分も働いた分はどうなるのか。作業部長にとっては責任問題である。紛糾(ふんきゅう)を重ねたあげく、所当局が仲に入って契約書を書かせ、ようやく支払うことになってケリがついた。その間、作業部長は気をもんだ。
 新築中の治療室が完成して使用となった(6月6日)。同じ木造建築だが前の明治以来の古い治療室とちがい、ベンキ塗りで明かるくしかも間数があって大きかった。ホータイ交換を始め、カルシュームや大風子注射その他の雑用に、患者が治療室助手(作業一日5銭)として出ることになった。カルシュームは(20㌘)火木土に血管注射、大風子は(普通3㌘)月水金の筋肉注射である。どちらもすぐ慣れて看護婦より患者の方が上手になった。それに相手が患者だからココヨ、アッチヨと気易くいえ、大風子の注射量もヘラシテ、フヤシテと勝手なことがいえた。大風子は油液だから注射器を押すのに力がいり、6、70人も注射するとおや指の腹が痛くなった。
 清水衛生課長が来島したので常務委員たちは、改革運動の眼目であった所長始め所員の更迭をあらためて要求した。あれ以来6ヵ月になるが、いまだ一人の更迭もなかった。課長は時が解決すると答えた。玉虫色で答えにもならなかった。
 石本は全国療養所の処遇が統一されないかぎり、悪い療養所の患者の不平は絶えませんと訴えた。課長はそういう声は高いから、何れそうなるでしようと答えた(注、国立移管になって処遇が統一されるのに、これから10年を要した)。
 永年放任された後だけに埃を叩くほど、次からつぎへと改善要求が出る。大小さまざま、腰巻きの長さを三尺三寸(1㍍)に伸ばしてくれというのもある。常務委員たちは当局と折衝し、それらを精力的に解決していった。
 逃走は開所以来珍しくなく、風のない海の静かな晩を、「逃走日和だ」と挨拶代わりにしたほどである。その逃走者を始めとして一時帰省者や永久退所者のうちの何人かが、新設の愛生園へあこがれて行き、香川県庁へ大島の患者が来て困ると苦情がきた。それを末沢書記は常務委員に伝え、当分の間は一時帰省も永久退所も遠慮してもらいたいと話した。それではほんとうに帰る事情のある者が困る。委員たちが対策に苦慮していると、一夜に10名逃走した。空前の大人数である。女児を連れた女2人と男児を連れた男1人、他に4人である。
「たぶん、子供を保育所に入れたくて愛生園へ行ったのよ」と女たちはささやき合った。親が病気なら子は病気であろうとあるまいと、一緒に入れて同居させていた。ほんとうに伝染病なら、人としてとてもできない処置である。すると翌日の晩の10時ごろ、1名ぬけて9名愛生丸に乗せて送り返して来た。みな同情した。
 「むこうにも事情はあろうが、せめて子供だけは病気でないんだから、保育所で引取ってくれたらいいのに……」
 末沢書記は逃走者だから、9名を監禁処分にするといきまいた。みな送り返されてうちしおれている。たまりかねて親の一人がいった。逃走して行ったのをいいこととは思いませんが、病気でない子を病気の親が保育所へ入れたいと願うこの親心は、もしあんたさんに子供があれば分かってもらえると思いますー。これには末沢書記も返す言葉がなかった。常務委員会からの懇請もあって、九名は監禁でなく謹慎三日の軽い処分ですんだ。
 毎月布教に来ていたキリスト教のエレクソン師から、2台のラジオが寄贈になった。おそらく1月15日の一件を知ってである。改革運動以後、寄贈品はそっくり渡されるきまりである。こんどは会堂の飾り物にはさせないぞと受取って礼状を出した。
 エレクソンさんは大正初期に来日し、日本語がとてもうまかった。菊池寛の戯曲「父帰る」の舞台は高松で大正七年の発表だが、そのなかに、英語を習って検定を取る弟に兄の話しかける場面がある。
 「やはりエレクソンさんのところに行くのか」
 「そうしようと思っているんです。宣教師じゃ月謝がいらんから」
 この高松のエレクソン師である。アメリカ人だが日本語で説教がうまく、会堂で居眠りをする者はいなかった。よろこびの歌をうたいましょうと、童顔が大□を開けて腹からの声でうたった。
 この年の盆には送金がなく作業のできない58名の不自由な貧困者に、当局から1人50銭ずつの小遣いが支給された。かつてないヒットで、盆の15日に雪でも降るんじゃないかと笑いあった。盆の余興には碁、将棋の大会が開かれ、ものはづけが募集され、特に14、15の両日は麦飯でなく米飯に団子、そうめん、それも従来の三束でなく百匁(375㌘)の七束である。その腹のくちたところで晩には暮れるのが待ちきれず、はやばやと青年団主催の盆踊りとなった。
 病気のために泣いて故郷を後にし、治って帰れるでもないのに、おもしろおかしく踊り狂う。顔で笑って心で泣いて、浮いた振りして踊るのだろう。場所はいまの八、九寮のあたり。山が切り崩されて平らにされ、いまだ地形もされてない荒地である。大島初めての盆踊りとなった。
 当局から氷を二〇貫(約80㌔)もらい、叩き割って氷水にして飲んだ。女浴衣を借り着して顔にお白粉をぬりたくり、和手拭をかぶって外股で踊る、カッパツな女が大勢出て人気を盛上げた。彼らはいや彼女らは暑くてたまらず、先の嵐で全壊した防波堤の残骸(ざんがい)に尻をまくって腰をかけ、諸肌脱ぎ(もろはだぬぎ)になってカチ割り氷をほほ張った。顔のお白粉は汗で流れ、提灯の明かりでみるとその姿は、まるでバケ物がバケそこねたようであった。
 海あり山あり、松下に憩い白砂にころび、島の夏ほど快適な季節はない。悩みのタネは蚤(のみ)である。のみがおるなんてものでなく蚤の中に人間が寝るのである。誰も防御作戦を考えるがどうにもなろない。支給された包布の大を布団につけず袋に縫い、丸裸で中に入って口を縛って寝る。これも一種の遮断作戦だが、顔も頭も封じ込むので暑くてたまらない。常務委員会はオーソドックスな方法を選んだ。前からある方法である。当局に依頼してその年初めて蠅取紙1100枚、蚤取粉9ポンド(約4㌔)買ってもらって各室に配った。
 蠅取紙は飯台の上に広げて蠅も取ったが、大半は蚤取用である。長さ40㌢・巾8㌢ほどの板切れに蒲鉾型に湾曲した針金・四Bの鉛筆のシンほどの太さを約2㌢おきに立てならぺてトンネル状とし、その中に蠅取紙を切って張った短冊様の板を差し入れる。これが大島産特製蚤取器である。誰もが一つや二つ持っている。これを寝床の脇において寝ると、一夜にしてベタ一面の蚤である。もちろん蚤の猛攻を受けるが、来襲する何分の一かは蠅取紙にかかる。いわばこれも気休めだったろう。(この蚤の大軍をせん滅して安眠できたのは、戦後DDTの粉末が配給になってである)。8月末に役員の改選が行なわれ、九月から委員長の青年団長兼任は廃止された。
 久しく病臥中ときいた小林所長が出勤し、改革運動以来初めて顔を見せた(9月5日)。去る6月ごろ病気でお休みときき所員に容態をたずねたが、何となく触れるのをはばかるように感じられた。それで委員長から一、二回お見舞状が出してあった。所長は一見元気そうだが、やはり病後らしく全身に張りがなく、少しやつれておられた。
 「ぼくも病気して初めて、きみたちの気持ちが少し分かった」
 としんみり述懐された。言外にいままでの不行届きを詫びた、真実の言葉であったろう。涙もろい患者はシュンとなった。改革運動の心労で、所長は患った気がした。石本委員長はあらためて先の改革運動を詫び、病気見舞をいった。所長はこれから毎月初めに懇談会を開こうと提案し、よろこんで委員たちは賛成した。
 話の中で所長は「清水如きが」と清水衛生課長の調停を、苦にがしく思う発言をした。これは言わずもがなで、聞いた一同から人格的にかなりの減点をよぎなくされた。
  10月1日、小林所長の病気全快を祝って、一同に紅白の餅が配られ、この日初めて所長の提案による所員と患者の懇談会が聞かれた。多数の所員が上段の椅子にかけてならび、下段は常務委員、顧問その他だれでも出席自由。約90名集まった。患者側の要求やお願いが一方的に続出し、当局側はそれに対する説明と弁解に終始した。これは看られる者と看る者との宿命であろうが、それなりに双方の意志の疎通がはかられて得るところがあった。

 東京の全生病院の「山桜」現「多磨」
 熊本の療養所の「桧の影」現「菊池野」
 青森の療養所の「甲田の裾」
 この3冊が毎月寄贈されて、当時の図書室におかれていた。それにならって大島からも、療養所の機関誌が発行されることになった。患者内からの声でなく、主として川染薬剤士の発案であった。当局からその誌名が一般募集され、病友の応募した「藻汐草」と決定した。多くの者には意味が分からなかった。編集者に内定していた川染薬剤士から、ものを書き集めることにかけた由緒(ゆいしょ)ある古い言葉で、海に囲まれた島の療養所にふさわしい誌名だと説明された。
 思ふ事を誰に言はまし藻汐草
    かきつめてだに慰みやせん
              (新続古今集)
 この他、古典文学には幾つも詠まれているそうである。書きたい者は娯楽部長に申出ると、原稿用紙がもらえた。思えば自治会ができてから短期間に、所員も患者も療養所のあらゆる面が一新された。それが誰にも分かった。病友間には運命共同体的連帯惑が芽生えていた。換言すればこれが互助相愛の精神であった。
 2回目の懇談会(11月2日)には果樹園開拓が話題になった。果樹を栽培して病人の栄養のたしにするという。名案だが要は水の便、栽培の便、せまい島のどこにそんな適当な土地があるかである。あすこはここはと双方の話がはずんだが、結論は得られなかった。
 修養団の高橋照道師が来島し、大島支部の発会式があった(11月3日)。多くの所員と病友が共鳴し「愛汗」と文字の入った和手拭の鉢巻きをしめ、修養団歌をうたい、高橋照道師の講演に感激した。
 12月の懇談会から従来貸与制であった被服類が給与制に改められ、一同よろこんだ。期限がきて着古るしていたんだのを持参しないと、新しいのと交換してもらえなかったのが、期限さえくれば支給される。ために大切に着れば手元に古るいのを残して、着替えにできた。
  綿入れ2年半     あわせ2年
  ひとえ2年      ゆかた2年
  包布2年       ネルじばん1年
  木綿じばん1年    ずぼん下1年
  おび1年半      メリヤスシャツ2年
  メリヤスステテコ2年 枕3年
  メリヤスずぼん下2年

 あわただしい暮れの12月を迎えた。28日に青年団始め元気な男女総出で、初めて正月餅をついた。それまでは当局が外部でついてもらって買入れていた。2月に改革運動の労をねぎらって一度ついてから、期せずして正月餅もつこうぜとなった。当局はもち米で買ってつき賃なしですみ、餅はきれいでうまかった。総員414名、もち米六石四斗(約900㌔)1人約一升五合の餅である。例年一升餅にきまっていたから、その年の五合は当局の奮発である。かくて餅つきは男女の楽しい歳末風景となって毎年つづいた。

 参考までに昭和6年中の慰問者と面会人数を記しておく
  説教と講演・・・47  慰問・・・1
  浪花節・・・10    生け花・・・1
  芝居・・・7      活動写真・・・3
  神職平癒祈願祭・・・1 浄るり・・・1
  仏教追悼法会・・・3  動物供養・・・1
  漫才・・・1      舞踊・・・1
  曲芸・・・1
  面会人の来島150名
            (藻汐草創刊号より)

  

「閉ざされた島の昭和史」大島青松園入所者自治会発行
昭和56年12月8日 3版発行


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