わたしはここに生きた   <盲人会五十年史> 国立療養所大島青松園盲人会五十年史

                   本書をハンセン病盲人に愛と理解を寄せられた多くの人々に捧げる

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あとがき         

 今では、ハンセン病療養所も解放医療によって、自由に外出ができるようになりました。そんな中にあって、私達盲人が暗黒の世界に光を見い出すには、自らが燃えなければならないことを悟り、無から有を生み出す努力をしながら、その日その日を精いっぱい生きてきたのです。そして人の痛みを我がこととして分ち合い、相互の連帯を強め、裡に光を蘇生させ、明日に向って歩みを続けているのです。
 盲人会創立50周年を迎えるのを機に、記念誌を出版しては………という声が出ていたのですが、盲人福祉会館の再建をかかえており、そのうえ出版費もおぼつかなくとても実現は困難だと考えておりました。しかし、幸い盲人福祉会館は多くの理解者のご援助によって完成を見ることができました。その後、篤志家の方々から多額の寄附金がよせられ、また晴眼者の方のご協力も仰げることが力づけとなって、出版に踏み切ることに決定したのです。そして編纂委員を選び世話係の積極的な助力によって、編纂作業に着手したのは57年6月のことでした。
 先ず年表の資料づくりから始めたのですが、果して50年前の資料が得られるだろうかとの危惧もありましたが、後援団体であった青年団の手によって記された杖の友会日誌を頼りに、手探り状態でようやく年表をまとめることが出来ました。それに6ヵ月を要し、こんなことではいつ発刊のはこびになるのだろうか、と気の遠くなる思いもしましたが、編纂委員は心を合わせ、とにかく機関誌「灯台」の一号一号から資料と文章の抄出にとりかかりました。
 昭和7年の創立より29年までは、乏しい資料や聞き込みをもとに、赤沢正美、今井種夫が分担して書きました。「灯台」からは、すでに亡くなられた会員の文章も、できるだけ広く掲載することにし、年代を追って会の動きや主張、生活記録、随筆、短文芸をより抜き、それを整理していくうち、次第に本のかたちが定まってきました。そして、政石蒙氏のアドバイスも受け、全般を第1部、第2部に分け、1部には、運動や記録的なものを主にして5章にまとめ、2部には、生活記録や随筆、旅行記などを6章に分割して納めました。本書の書名については、いろいろ考えましたが、差別と偏見の中で孤独と闘いながら、その折々の体験や思い出をつづったものが多く、本の題を「わたしはここに生きた」としました。
 また、御多忙のところ園長の岡田誠太郎先生に序文を書いていただき、讃文社の永田敏之氏には再三ご来園を願い出版の労を賜わりました。自治会においても本書の出版にあたり作業援助や物質的ご援助もいただき、政石蒙氏には編集から装頓にいたるいっさいのご奉仕を賜わりました。そして1年にわたる資料調べから代読、代筆すべてを世話係の松浦徳男、黒木昭丸、大西笑子の各氏に行なっていただきましたが、この作業は盲人相手のことで苦労の多いものでしたが、気持よくご協力下さり感謝しております。日頃何かと会に対し深いご理解をよせられております京都在住の随筆家・岡部伊都子様には、本書推薦のことばを心よく書いていただくことができました。この外職員世話係・細川兵次郎、宮地いつ子両氏をはじめ一般晴眼者、会員皆さんから、物心両面にわたるご援助にあずかりましたことも忘れられない支えでした。こうした方々のあたたかいご支援によって本書が出版できましたことは、私たちの大きな喜びであり、ここに謹んで厚くお礼申し上げます。
 ハンセン病療養所は急速に老齢化の波が押しよせ、ことに盲人のうえにはそれが顕著にあらわれております。私たちはこの島を終焉の地として過ごさなければなりませんが、今なお根強く残っている偏見に、肉親はおびえているのが偽わらない現実であります。この半世紀にわたるハンセン病盲人の苦難に満ちた道程、その魂の叫びの書「わたしはここに生きた」を、一人でも多くの方に読んでいただき、真の理解を得ることができればこれに勝る喜びはありません。
 なお資料としては会日誌、園の機関誌「藻汐草」、自治会の「閉ざされた島の昭和史」などを参考にさせていただきました。                       

編纂委員
今井種夫
南部 剛
赤沢正美
北島澄夫
籠尾ひさし
吉田美枝子
島田 茂

  




「わたしはここに生きた」大島青松園盲人会発行
昭和59年1月20日 発行


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