閉ざされた島の昭和史   国立療養所大島青松園 入園者自治会五十年史

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入園者の証言と生活記録

五十七銭也の思い出       鳴門 千草

 3日程前、いつも気になっていた枕許の、大島製茶ダンスの小抽斗の整理をした。手あたり次第なんでも入れるからゴチャゴチャと一杯、出し入れする度に引っかかる。整理をと思いながらも寒さにかまけてそのままになっていたのである。
 暖かくなり、気分もよかったので上からひとつ、ひとつ、いらない物は捨ててと取りかかったのに、さて捨てるとなると欲が出て又いる事がと……結局隅にたまったゴミを捨てただけで全部おさめてしまった。その茶ダンスの中抽斗の奥になつかしい財布が薄汚れておさまっていた。
 この財布には次の様な思い出がある。昭和15年4月、故郷へ一時帰省した。その頃大阪に私が兄の様に慕っていたTさんが退園され働いておられた。一度遊びに来る様にと言って下さっていたので、帰園を早め大阪に廻って市内見物をさせて貰った。その時この財布を買って下さったのである。財布の中を開けると、今はつかえない小銭が少し、武内大臣の一円札一枚、そして白い紙に包んだと言っても、すでに茶色をおびているその包を開くと、初作業賃、と書いてあり、五十七銭也がおさまっていた。何年のお金かと虫眼鏡で見ると、昭和18年、19年、23年である。金銭引替えの時に入れ替えたらしい。その後も引替えがあったと思うが、その頃入院していてそのままになった様である。
 包布付と言っても、今の様に、やわらかく針の通りやすい物ではなかった。木綿の布団に人絹のガバガバのシーツ、それに糊がカンカンに付いていて、固い事この上ない。その頃はノミ、南京虫の天下で一晩でシーツは汚れる。1週間も付けているとソバカスを振りまいた様になる。だから包布付けはいつ行っても部屋中一杯で、私ははじめての事ではあり、気疲れと仕事の過重さでくたくたになったことをおぽえている。少しでもみなについて行こうと一生懸命、指先はだんだん痛くなる。「あんまり気遣いせんことよ、ボツボツ付けな無理すると指が痛くなって、どうにもならなくなるよ、そのうち馴れるからね」と、先輩がやさしく労わって下さった。1日では寮を廻る事が出来ずあくる日も続けて行った。真赤になった指先は、夜になると熱っぽく、ちょっと物がふれてもとび上るほど痛かった。
 包布付け作業は大洗濯したのが乾くと、綻び縫や、継あてに行く。それから女不自由寮、病棟の人達のおこしを集め洗濯をして持って行く。「有難とう、済みません」と喜こんで下さると、とっても嬉しかった。が、一度哀しく嫌な思いをした事がある。名前通り持って行ったのに「こんなにハゲたのと違う、私のじゃあない」とどうしても受け取って下さらない。私は買って持って来るつもりで、「それじゃあ、2、3日待って下さいね」と言って、帰りかけると「一寸待ってよ」そう言って押入れをゴソゴソ見て居られたが、自分の感違いだった事がわかり、ヤレヤレと胸をなでおろしたこともあった。(その頃売店には衣類品はなく、園外の小売人に注文していたのでその日にまにあわす事ができなかった)2回目を廻った包布付けの時「あんたに付けて貰った包布、はずすのがおしかったよ、あんなに、きれいに伴いていたのははじめてやあ」と言って喜こんで下さった、おじいちゃん、おばあちゃん……。
 私も園内作業は一通りした。その頃の事を今でも夢に見る事がある。不自由寮看護で自炊になり、心配しながら十数名の食事を作った事、なま木の為にお茶がなかなか沸かなかった事、薄暗い朝、くどの中から猫が飛び出し、ビックリさせられた事など、下綿洗いで一日中その匂いに悩まされた事、下綿洗いは長靴で海の中に入り、あら落しをするのである。大きな船でも通ろうものなら、急に大波が来てザブンと頭から潮をかぷる。海から持って帰ると今度はポンプをギットン、ギットンと押して濯ぐ。そんなにしても、賃金は本当にささいなものであったけれど元気で少しでも皆さんに喜こんで頂だける、その様な倖わせはお金では得られない喜こびを感じさせてくれた。
 作業の間には支給される衣服を縫い、婦人会の奉仕に出る。爪切り、綻縫いなど青年団、婦人会での奉仕別は十指に余る程あったがその奉仕に行くのがあたりまえの様に思っていた。何時の日にか私達も、この様にお世話になるだろう。お互いに助け合い、世間から忘れられている、私達の人生を歩まなければと思っていた。
 春秋の運動会、盆踊りも、青年団、婦人会が主催であった。運動会と言えば思い出すことがある。少女寮にいた当時の事である沢山のゲームの中に案内競走があった。説明しなくても皆さんご存じの事と思う。ヨーイドンで走り、封筒を拾い中を見ると、「野島所長さん」とある。私はビックリ、どぎまぎした。けれどもそのまま立っているわけにもゆかず、職員の方が居られる方に、と言っても出発点へ後もどりして大分ゆかなければならない、他のお友達は近くで待っていて下さったのだろう、もう手を取って走って居られる、「所長さん」それがなかなか声にならない。その私の横でSちゃんが「河村主事さん」と呼んでいる。私一人でなかったと、思いきって「所長さん、所長さん」と大声で呼びつづけた。「私かね」後の方からボツボツ歩いてこられる。その時Sちゃんが1人で走り出した。それにつられて私も走り出してしまった。見るとお友達2人は決勝点近く迄走っている。途中でやめようかと思ったが1人でもいい、走れ走れ……
 その私の前をお友達に手を引っ張られ、片手で帽子をおさえて、そっくりかえる様にした三宅のおじいちゃんが目にはいった。それがとてもおかしくて、笑いながら走ったが、それでもおじいちゃん達を追い越して、殿りにはならずにすんだ。決勝点につくと、野島所長さんがニコニコして私を待っていて下さった。「えらかったね、ご苦労さん、ご苦労さん」と手を叩いて迎えて下さった。あの時の笑顔が今でも瞼に浮ぶのである。
 あの頃の園はとってもまあるく、暖かかった。みんな他人ではなく、大家族の様な雰囲気だったと私は思う。戦争、戦争で明け暮れ、そして終戦、様々の壁にぷつかり乍らも、どうにか生きて来た。
 現在は里帰りと言う思いがけない喜こびも得られ、外出も、一時帰省も以前の様にきびしくなくなった。それも新薬出現のお蔭である。暗く沈んだ人生も、今は光明を得ている。そして今の園内は何もかも便利になった。
 昔の食事配達は、不自由寮は作業入による大八車、健康寮は松の木の丸太を輪にした小さな箱車、雨の日も風の日も日に3回炊事場までエッチラ、オッチラと往復する。梅雨時など、たっぷり水を吸った輪を、軋ませて、フウフウ言ったものである。それが今は、配食カーで簡単に配食する。配給物はいうにおよばず何んでもちゃんととどけてくれる。ノミ、南京虫で汚ごされていたシーツも、何日たってもきれいなもの、水道、ガスコンロ、洗濯機まで寮ごとに取り付けられ、スイッチをポンと入れれば簡単に洗ってくれる。手の皮が破れる程、石鹸をつけごしごしこすりつけていたことも遠いものとなった。
 病棟も患者看護でなく完全看護となった。不自由寮も看護助手さんへと、徐々に切り替えられつつある。24畳(12名)の雑居部屋もなくなり、夫婦寮、独身重不自由寮個室(1名)八畳(2名)十二畳(3名)ゆくゆくは全部個室制にとの事であるらしい。個室になり誰にもわずらわされず、余生を送る事が出来るとは思うけれども、だんだんと昔の様なふれあいは薄れるのではと思われる。それでなくても園内の空気は、寝た切りの私に一抹のさみしさを感じさせるものがある。そう感じるのは私ひとりかもわからないけれど……隣は何をする人ぞ、にはなって欲しくないと祈りたい。
 年に一度の餅つき、これも奉仕であったが、出られる人はみんな総出のにぎやかさで和気あいあい本当に楽しかった。数年前からそれも機械になり、あのにぎやかな声を、姿を聞くことも見る事もなくなった。そして盆踊り、運動会も消えた。
 島の北山中腹、一周の道も、大島神社、雲井寮の敷地も奉仕の汗で築かれたものである。その事を知っている人達は、いま島に幾人いられるであろうか。形をとどめている物でさえ忘れさられるのである。
 青松園開設60年になるとか、協和会を今日まで育て続けて下さった先輩の方々、その後を守って下さっている方々の御苦労を忘れているのではなかろうか、忘れる事なく次々と伝えて欲しい青松園の歴史である。

              (青松昭和44年7月号より転載)

  

「閉ざされた島の昭和史」大島青松園入所者自治会発行
昭和56年12月8日 3版発行


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