閉ざされた島の昭和史   国立療養所大島青松園 入園者自治会五十年史

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入園者の証言と生活記録

作業あれこれ       上野  博

 入園してもう満8年になるが、最初の作業が治療室助手であった。助手と言えばちょっと聞こえがいいが、仕事の内容は看護婦の指示したことを手伝うだけで、例えば患者の包帯巻きとか、或いは器具の消毒、又は治療時間の終りの掃除等、いわゆる雑役である。昨日まで元気で働いていた私が今日は入園者として園内作業に従事してみて驚いたのは、たまげる程の低賃金である。以前の収入の30対1の比である。衣食住の心配は一応ないにしても、その開きの余りに大きいのに驚いたと言うよりも、働く意欲が起きなかった。それでも働かなければ僅かな慰安金では、ろくに煙草を喫うこともできない。渋々ながら働いているうちに、園内の生活がしみこむとでも言うのか、諦めてしまったのか、自分で判らないうちに働くのが当然ででもあるように働きだした。
 半年続いた。看護婦にこき使われると言えば多分に語弊があるが、それが若い看護婦に、あごで使うのではあるまいが、そう言ったように使われることがあると、子供のある親父が、「あんな小娘に……」と腹が立つより先に、我が身の病気が無精に情けなく、明日からけつ割って〈作業返還〉やろうかと何度も考えた事もあるが、その頃は作業賃が収入の大半を占めている貴重な財源でもあれば、慰安金だけでやってやれないことはないが、金に引張られて慟いたものである。
 次の1ヵ年は病室の役員であった。朝飯を済ますと、のこのこ出掛け入退院の手配やら滋養物の配給など、雑事は多かったが、まあ自分では過もなく不足もなくやったつもりである。4日に1日の宿直では、夏分はそうでもないが、秋から冬にかけては、夜中に何度も起こされた。入院者の夜間投薬は、病室部の宿直が同道しなければ、呉れない不便な制度になっていたのである。―秋から冬にかけて、特に多い神経痛の痛止めを貰いにくる者が続いてやってくるので、ひどい時にはろくに眠る間もない位いの夜もあった。痛んで眠られぬ病人のように、私も夜の明けるのをもどかしく待ったこともある。
 午後9時以後に死者が出ると、湯灌は翌朝である。朝寝の私は準備係として間に合わぬので、たとえそれが夜中の2時であろうと3時であろうと、棺桶を倉庫から担ぎ出し、暗い解剖室へ運んだものである。気持のいいはずは勿論ないが、それと言って気味悪いと言う程のものでもなかった。それから戻って一ト眠りする訳である。
 何回目かの時である。午前2時頃棺桶を運び入れた途端、風のいたずらであったが、一杯に開けてあった入口のドアが、ギシーッと錆びた音をたてて閉った。私の背筋を冷たいものが走った。薄気味悪くって一寸の間、後を向くことが出来なかった。
 それ以後私の夜中の棺桶運びは、ぴたっと止んだ。自分でそれ程恐ろしいとか、気味悪いと思っていないつもりでも、矢張り死と言うものに対する不安なおののきが絶えず潜在意識として、こうしたほんの小さい風のいたずらに向って大きく動揺するのであろう。
 次の1ヵ年は売店であった。ここでは随分と利率のことで一般から叩かれた。それ迄は仕入価格に対して平均5%の加算売価である。外部の商人と売店との直接交渉による仕入であり、一般の売店を利用する品物には、大体の想像はつくにしても、原価は判らない訳である。―それが、大根1本、牛肉100匁と言うような売店に売ってない品物を扱う、小ロ商人が出来てから、代金は一切売店の手を通じて行なわれていたが、外では定価100円のものも、それを小ロ扱いにして注文者に渡す場合は商人、売店各々五%ずつであるから110円になる訳であるが、買う側としても初めてなので、不馴れな故もあり、原価が判るだけに何か10円損をしたような感じをうける訳である。これは無理からぬ話で、誰しも定価で買うのが当然で、商人の5%は仕方がないとしても売店の5%は高いと、そのしわ寄せが売店係へ苦情としてネジ込まれる訳である。
 計算間違いや不行届きの点でどんなに怒鳴り込まれようが、叱られようが、私としてもこの1年は叱られるものと割切っているから、どうも済みません、と謝りもすれば頭も下げられるが、5分の利率が高いと血相変えて怒鳴り込まれると、胸糞が悪い。1銭の儲けも自分の物になる訳ではあるまいし、5分が高ければ買わねばいいのだ。とついロの端まで出かかったのをやっとの思いで押込むのである。もう金輪際「役員なんかするものか」と、一旦引受けた自分自身を悔みながら。
 「規約で決められたものを、自分でどうこうすることは出来ませんから」
 と言うより他に仕方がない。利率は3%に下げることでけりがついた。1年が終り、やれやれと私は腰を伸ばすことが出来た。
 肥料揚げ、土工、元気な今の私には、園内作業でまあまあ出来ない作業はないと言っていい位、凡ゆる作業をやっている。
 肥料揚げにしても人糞だから臭くはあるが、やっている私にはそう臭くはないから人が見る程きたないとも思っていない。誰かが始末しなければどうにもならない代物であるが、きたなく儲けて、きれいに使えと言う具合に自分で割切って、臭い車を曳いている。
 一度失敗したことがある。少年舎の新道がまだ工事中のため横の急坂の悪い道を通った時、液体の糞尿は、方円の器に従う法則通り、大きな箱の中で前後に移動していたが、不意のくぽみに片輪がメリ込んだ拍子に梶棒をシャクられ、運転の自由を失って、すぐ下の寮舎に突込んだのである。車体がぐらりと揺れ、前にどっと押寄せた糞尿の重みで、2人の渾身の力も車を止めるには及ばなかった。もう駄目だと思った瞬間、私は眼をつむった。部屋は窓を開けている。私は家にぶつかった車から、畳の上を糞尿が洪水のように流れて行くのを、この眼で直視するに忍びなかった。
 大きな音をたてて車は家に衝突した。おそるおそる眼をあけてみると、幸か不幸か、車は戸袋にあたり、壊れた糞尿車からは黄色い液体、固体が音をたてて流れていた。もう手の施しようがなかった。
 汚れを消防ポンプで流したが、その場所は、いつまでも臭気がしみこみ、土面は何日も乾かなかった。私はしばらく肥料揚げから足を洗っていたが、そのうちにまたするようになった。
 それから3年目に今度は人々を使う側の作業担任になった。もう金輪際役員はするまいと思っていたのに、とうとう引受けさせられる破目になってしまった。仲々断れないものである。「作業部をやれば収入が少くなって気の毒だが」と総代に言われると、いいえ収入のことは問題ではないのですが、と、ついうらはらな事を言わざるを得ない。少し気張って働けば普通の作業では、役員の収入の倍近くあるのは事実である。指示された通りの作業を時間だけ働いていればいいのである。しかし役員はそうはいかない。早朝であろうが深夜であろうが、いつなん時どんな用事があるかも知れないので、絶えず緊張しているから、心の休まる間もない。
 収入の減少、精神的負担等を充分承知していながら、誰かがやらねば園や自治会はたって行けないと言う言葉にのってしまい、又自分もそれもそうだと、殊勝な気持になったりして、つい「うん」と返事してしまってから、後ではすぐ「断るべきであった」と後悔している。

              (青松昭和32年11月号より転載)

  

「閉ざされた島の昭和史」大島青松園入所者自治会発行
昭和56年12月8日 3版発行


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