入園者の証言と生活記録
園内環境衛生の今昔 里見 一風
戦時中をこの島に生きぬいて来たひとならば、南京虫と蚤と繩に苦しめられた記憶は未だに新しいことと思う。その頃大島の南京虫と蚤の多いことは、他の療園に知られていて大島から転園して行った場合には持物を必ず消毒されたぐらいであって、その頃大島に南京虫や蚤がいかに多くいたかということが想像出来ると思う。
その頃のわたしたちには夏が来るのが一番怖く、又それ以上に夜が訪れるのが悩みの種であった。殺虫剤も何もない時代で蚤や南京虫の繁殖するがままに放置する他に何んの策もないのである。こうして蚤や南京虫の責苦に堪えかねた結果だれが考案したものか姑息的ではあるが、大島特有の蚤取器が出来ていた。その蚤取器と言うのは縦6寸に巾2寸ぐらいの板製のもので、竹を箸ぐらいに削りそれを曲げて右の板にカマボコ形にさし込むのである。又その蚤取器の形に合せて蝿取紙を小さな板ぎれに貼りつけて蚤取器の中にさし込んでこれを夜寝る時に抱いて寝るのであるが、一晩の間にこの蚤取器に5、600の蚤が取れるのである。又これとは別に夜寝床に入る前に盥(たらい)に水を張っておいて夜中に寝巻を取替えこれを丸めての盥の水の中へそっと浸しておくと、翌朝盥には何百と言う蚤が一面に浮いているのであった。又布団の包布を洗濯して新しく取替えても、一晩の間に蚤糞で包布は真紅になり、これほど痛めつけられては睡眠を取ることも出来ないので、色々工夫をしてある部屋では石炭箱と雨戸を利用して寝台を作り、急場を凌ぐ者もいたが、薬剤のない時で他にこれと言って名案もないまま、夏になれば毎年金寮が畳を上げて板敷の生活をしなければならなかった。そのために神経痛持ちのひとは格別の苦痛に堪えねばならなかった。
又その頃いつどこから入って来たものか、わたしたちが生れて初めて見る南京虫と言う実に怖ろしい敵が一枚加わり、われわれは日夜恐怖のどんぞこに突き落された思いであった。この南京虫と言う奴の繁殖力はものすごく、わずかの間に島全体に広がり、何んとも手の施しようがなかった。この南京虫の形は丁度牛や馬につくダニと同じで、頭が小さくお尻が太くて、蚤のように昼間は畳の目や柱の割目に頭を突っこみお尻を出しているのであるが、夜間になると大活動を始めるのである。この南京虫に負けると、40度もの熱を出して入院する者が出るほどであった。
又その頃の食生活と言えば1人宛1食分が麦飯250グラムと、副食として協和会で製造した塩をほんの目薬ぐらい配給されたのであった。こうした中で動ける者は毎日防空壕掘にかり出され、そのために栄養失調で倒れる者が続出して、毎日のように夜伽室は満員で棺桶が1日に3個、5個と並んだのもその頃であった。だれかの書いた本で読んだことがあるが、1晩の間に3匹の蚤に吸われた血液の量は卵1個に価いすると書いてあったが、この計算からゆくと1日に10個や20個の卵を吸ったぐらいでは、蚤と南京虫に吸われただけの血液量を補給することは出来ないであろう。
こうして蚤だけでさえ持てあましているところへ、新しく南京虫と言う奴が出現したのだから只戸惑うばかりであった。又執行部としてもその一策として、全寮の畳の消毒を思いつき、礼拝堂の南側を消毒場と定め毎日部屋順に畳の蒸気消毒をしたのであったが、それはほんの気休めにすぎず、幼児の遊びごとのようなもので結果的には畳床の寿命を短かくするだけでしかなかった。この南京虫と蚤との戦いは終戦後も尚しばらくの間つづいたのであった。夜は南京虫と蚤に、昼になれば蝿に苦しめられ、一刻として休まるいとまもなく毎日が地獄の中で生きているような苦しみであった。こうした環境の中で次々に沢山の病友たちが倒れて逝ったのであったが、この方たちも矢張り戦争の犠 牲になったひとたちだと言っても言い過ぎではないと思われる。
又蝿の方も執行部が買いあげて蝿取りを奨励して、蝿百匹につき金1銭で、その上に沢山取った者には副賞として1等賞から10等賞まで、副賞として甘藷をそれぞれに渡していたが、それでいて蝿は少しも減らず、蝿に随分苦しめられたものである。それで蝿を沢山取る人は1人で10万、15万と言う蝿を事務所へ提出していたものであった。こうして毎日提出される蝿を係りの者が、まことにのんびりした態度で丹念にその蝿を、1匹、2匹、3匹と数を読んで受取り、若し100匹にみたないものは次回に合せ計算して受取るのであるが、これは本当に大変な仕事であった。人間だれでも繩の好きなひとはひとりもいないが、特に神経質のわたしは蝿が1匹でもいたら食事も読書も落ちついてすることが出来ない。そこでわたしが部屋にいる時には自分の傍から繩叩きを離したことがない。こうして蝿と蚤と南京虫には、いやと言うほど苦しめられたのであるが、終戦後間もなく強力な殺虫剤が輸入されたおかげで、その薬剤の前に蚤と南京虫はあえなく矛を納めたのであって、その20年の間今日まで蚤と南京虫の姿をかってわたしは一度も見たことがない。本当にありがたいことであるが、蝿の方は毎年協和会が予算を出して駆除に努めたにも拘らず、依然として余り成果はあがらなかったのである。
今は亡くなったが繩取の名人で、いつも蝿の取高では首位をしめていた名人のBさんは、毎年賞品を山ほど貰って得々としていたものである。寒がりのわたしなど未だ重ね着をしている頃から、Bさんはパンツひとつで蝿叩きをさげて園内を廻っていたが、Bさんに睨まれた蝿は絶対に逃げることは出来ない。Bさんが睨めば百発百中で、蝿どもにとってBさんは怖い存在であったでしょう。Bさんが亡くなって繩どもは枚われた思いでほっとしているのではあるまいか。Bさんの元気な間は夏になると、日課のように毎日豚舎へ遠征していたが、それは勿論蝿叩きのためであった。片手がぷらのBさんは蝿叩きを小脇に、ピンセットを横咥えに、又片手にはビニールの袋をさげて、垂れ足を引きずり乍ら出てゆくのであるが、手の不自由なBさんは、取った蝿をひとつひとつピンセットではさみ、袋に入れて予定の時刻が来ればすたこらと自分の部屋に帰ってくるのであるが、部屋に帰ってからが又大変である。その日に取った蝿を部屋の真中に新聞紙を広げて袋の蝿を移し、婆さんと向い合ってピンセットで1匹、2匹、3匹と蝿の数を読んで事務所へ提出するための下読みをするのであった。
こうしてBさんたちの努力が漸く実をむすんで、以前よりは蝿も減少しつつあったところへ、先年赴任された医局のA先生が、わたしたちに環境衛生をやかましく注意され、みんなが協力したお蔭で年々蝿が少なくなりつつあったが、特にこの夏は蝿の少ない部屋で生活することが出来てこんなありがたいことはない。
(青松昭和42年2月号より転載)
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