入園者の証言と生活記録
盲人の口 森川 ゆきみ
“口で物をさぐる”と言うことは、私達盲人のほとんどが行なっていることだと思います。手足に感覚のない私達にとって、たとえそれが衛生に悪くても、見た目がおかしくても、そんなことを言っては居れないのです。しかし、こういうことは世の人達にいやな感じを与えるだろうと思います。私も入園当初は、年令も若く15、6才だったし、病気と言っても左の脛が麻蝉している程度で、壮健者と変らないくらいだったのです。風呂場などで目の見えない人が、着物から下着まで、帰リにはゴムの短靴までロでさぐっているのを見て、背筋の寒くなるようないやな思いをしました。
なぜあの人達は、着物のうら表、靴の左右ぐらいまわりの人に聞かないのだろうか、たとえ他人ではあっても、狭い療養所の中で毎日顔を合せている者同志なのだから、それくらいのことを答えてくれない不親切な人も居ないだろうに、眼が見えなくなると性質までひねくれて、一言聞けば済むことでも聞きたくないのだろうか。私は若し病気が重くなり眼が見えなくなっても、あんなことは絶対にすまい、と、病いの苦しみをなんにも知らなかった私は本気でそう思って居りました。
そんなふうに思い始めると、今迄よりよけい目に付きだして、そのたびに顔をそむけたいようないやな思いをさせられました。そんな私も、昭和20年の夏頃より右眼が悪くなり始め、あまり痛まないのに何時の間にか見えなくなっていました。残る頼みの左眼も22年正月頃より悪くなり、忘れもしない4月29日の夜、一晩中痛み続けて、翌朝起きた時はもう何も見えなくなっていました。
眼が覚めた時、真暗なので夜明け前かと思いましたが、周囲のざわめきで朝だと知った時の驚き……自分は盲目になったのだと思うと、深い深い谷間に落ちてゆくような絶望感に襲われて、何を考える気力もなく只オロオロするばかりでした。しかし、治療の甲斐があって一時視力を回復していましたが、一年余り後には完全に失明しました。手足が麻蝉していても、眼の見える間は見ながら出来るので、不自由とは言ってもそれ程でもありませんでしたが、眼が見えなくなるとその不自由さは想像に絶するものでした。お茶を飲む時なども、夫の置いてくれた湯呑を口でさぐるのがいやさに、この辺だろうと思って手を出すともうひっくり返しています。着物を着る時でも、脱ぐ時に取りよいようにと順番に重ねてあるものを、麻蝉した手をもっていっては分らなくし、夫に取って貰って着なければならない有様でした。
その都度夫に「お前はなぜ口でさぐらんのだ。失敗してつらい思いをするのはお前自身だし、他の人が口でさぐっているのにお前だけ出来ない筈はないだろう。盲目になってまで見栄を張らなくてもよいではないか」と言って叱られました。
私もそうしなければと思うのですが、口でさぐるのはきたないいやなことだ、と言う先入感の抜けない私は、始めのうちどうしても実行することが出来ませんでした。失敗を繰返しては、これくらいのことも出来ない自分が情けなく、腹を立てては幾度泣いたか分りません。
その頃の不自由寮は今の夫婦寮と違って、夫婦と言っても夫は夕方きて朝帰り、昼間は全然居ないので、自分で出来なければ人に頼まなければなりません。私はまだ眼の見える頃、盲目の人はなぜ人にものを頼むのをいやがるのだろうと不審に思っていましたが、自分がその立場になって見て、私が思って居た程たやすく頼めるものではないことを知りました。元気であればたとえ頼んでも何時かはその人から頼まれることも出来ますが、私達は頼むばかりなので、どうしても肩身の狭い思いをします。ひがんでいるのかも知れませんが、人の厚意は有難くても、その厚意を受ける自分がみじめに思われてならないのです。だから無理をしても出来ることは自分の手でしようとするのです。
失敗を重ねているうちに、こんなことではいけないと考え直すようになり、ロでさぐる決心をしましたが、初めはやはり人に見られたのだろうかと、身体の熱くなるような恥ずかしさを覚えました。私もとうとう口でさぐったと思うと、なんとも言えない淋しさを覚えましたが、自分の手で出来た喜びは、そんな思いを吹き飛ばすほど大きなものでした。その喜びに勇気付けられ続けるうちに、馴れると言うことはおそろしいむので、人の前で無意識のうちに手より先にロを持ってゆき、恥ずかしきもきたなさも感じなくなりました。
今では失明当時に比べると、身体の不自由さは何倍にもなっていますが、口と耳を頼りに室内の掃除洗濯など小さいことの外はほとんど自分の手で出来るようになりました。その努力の報酬は大きなものでした。“成せば成る、成さねばならぬ何事も、成らぬは人の成さぬなりけり”と言う諺もあるように、人間は如何なる境遇にあっても、努力することが一番大切だと思います。
(青松昭和32年4月号より転載)
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