閉ざされた島の昭和史   国立療養所大島青松園 入園者自治会五十年史

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入園者の証言と生活記録

カニューレの滴り       赤沢 正美

「咽喉切り三年」そんな言葉がもっともらしい顔付きで、私が入所した当時は横行していたものだ。そして結節癩の者なら誰でも一応も二応も神妙に、なかば諦めなかば遠い日のことだと思いながら、肯定していたものである。それは発病と同時に規定づけられた約束ごとのようなもので、途中で死なない限り逃がれることが出来ず、眼が見えなくなるのが先か、或いは咽喉をやられるのが先か、とにかくどちらかの順序で正確に訪れる。だから咽喉と眼と両方やられてしまうのもしばしばだった。無論それまでになるには、それ相当の年期がかかっているのだから、顔や手足に傷が出来、だんだん病み崩れ始めると、もう後どれ程の期間で自分の体がどうなるか、誰れ彼れの状態でちゃんと目安はつく、しかし昂進する病状を阻む薬も方法もなかったのだから哀れである。あたかも終点に向って驀進する列車に否応なく乗せられたようなもので、転げ落ちて死にでもしなければ、喚き散らそうと、黙って呆然としていようと、終点に運ばれたものである。だから「咽喉切り三年」は、列車が終点に着いたことを意味していて、あとは死の谷に引きずり降ろされる他に何もない。理詰めから生れた言葉であった。また、事実それを裏書して、否、その言葉を忠実に守るように、例外をのぞくほとんどの者が、気管切開を受けると三年もしない間に死んでしまったものである。
 従って、多くの病友は気管切開手術をまるで引導でも渡されるように、死の手形をはっきり自分の手に握らされる如く怖れたものだ。親しい友人などが、たまたま苦しそうな息づかいを見かねて、手術を奨め、窒息してもいい切開だけは厭だと言い張られ、ばつの悪い思いをさせられた話も、珍らしいことでなかったのである。土壇場に追いつめられても欲目で、何かの拍子で咽喉にひっかかるようなものが、きれいさっぱりすっと取れはしないか、寒い間だけこのままの状態で辛抱すれば、直ぐ春だ、暖くなればまた何んとかつぎに寒くなるまでしのげるなどと、儚い雲を掴みながら、トンプク、やれ注射だと無理を重ねる。それで痰が咽喉にからみどうにもならなくなった頃には、体の方がくたびれてしまっている。やっと切開する気になっても手遅れで、大抵の場合駄目であった。切開で急に息をするのが楽になり、全身で抵抗してきたものが無くなってしまうと、心がぐったり参ってしまうらしい。私も何回か手術を受けた人の夜間付添をしたことがある。そして不気味な程安らかなカニューレの寝息の音に、言い知れない物悲しさを覚えた記憶がある。とにかくどうにもならなくなっての手術では、ぎりぎりの処に堕ちた自分の肉体を、少しでも永く保とうとする心構えの出来ない内に、死んでしまったものである。
 無論、「咽喉切り三年」気管切開即死と言う単純な事実だけに怯えて、手術を拒んでいた訳ではない。昨日の人の身をつぶさに視ている。特に眼までも見えなくなっていると、手術を受ければ早速力ニューレの掃除は人の手を借りねばならぬ、それもきれいな事なら我慢できる。痰を拭うのだから、一寸して貰うのでも身を切られる思いで頼むのだ。かって自分が頼まれていた立場の経験でもあろうものなら、そのときの行為に愛情をこめていたと思っていても、生半可なものはすっとんでしまい、厳しい倫理の審判を受ける。しかも生きている限り、カニューレの掃除は、一日として欠かすことが出来ないのである。また幸い眼が良くても、手の感覚が無くなっていたり、指が完全な姿をしていなくて、並大抵の苦労ではない、いやそれ以上に、咽喉にカニューレをはめた醜怪な姿を、人に見られるのは余りにも自分が可哀想なのである。カニューレの孔を押えて、嗄れた声を出す恰好は、ぷざまで醜怪で無慙と言うよりむしろ、滑稽なのである。だから切開手術を受けないで、窒息してもいい、そのまま消えてしまいたかったのでもあろう。
 他のことでもそうであるが、人のことだとあの人は病気になって古いのだから仕方がないなどと、そうなったことが当然であるかのように見過せる。しかしいざ自分の身の上になると、簡単には当然だと思われないから勝手なものである。私は自分が切開手術に追いつめられ、私の病歴から計算して不当だと思った。まだ俺より先に発病し、俺より先に入所した者が沢山残っている。そう叫ばずにはいられなかったものである。成程、私は入所して1年もたたない内に、大風子注射は痛いと止めてしまった。雑居生活で昼は喧ましく読書が身にならぬと、仕事のないときは必ず昼寝で3度の食事だって決った時間に食べた事が少い。人々が眠りラジオの放送が止み、辺りが静かになると、まるで自分の世界にでもなったつもりで、いい気になり或る時は夜明け近くまで、早くても二時か三時頃までは起きていたっけ………だから同室の者から蝙蝠というお名前を戴いたのである。病歴が浅いと言って、きちんとした療養生活をしなかった条項が有罪で、私の計算より早く悪くなったのかも知れない。それに戦争中で食糧が不足していたり、癩が昂進しかけあわてて治療しなくちゃァと、思ったときには薬も不足していたのである。
 そんな訳で、私が切開手術を受けたのは終戦直後である。其の頃死ぬ者、或は急激に癩が昂進する者が多かったものだ。同じ様に咽喉を侵されても声帯の侵され加減で、発声にさほど困難を感じない者もある。私のはその反対で、声帯がやられたのである。暗い夜道などですれちがい「今晩は」などと声をかけても、誰も返事をしない。無論私の「今晩は」が相手に通じる程の音声にならなかったのである。つい2、3間前を歩いている者を呼んでも振返らない。私はそれでも何回となく声の出ないことを忘れ、話しかけては惨めさを昧わったものである。お喋り屋の私は声のでないもどかしさ、焦立たしさは堪えがたかった。私は声がでなくなったことを自分自身に納得さそうと、手術に心が動いた。それに余り息が苦しくなり、病気に追いかけられるより一足先に手術をしてしまいたかったのでもある。
 手術室は治療室の一隅にある。従って応急の場合でない限り普通の治療が済んでから、始められる。白いタイル白い壁白い天井と、まったく白一色の手術室はそうでなくても明るいのに、晩秋の物静かな陽光が硝子を透し眩しい程であった。中央にぽっかり一つ据えられた台に、私がねかされるとき各科の治療は終り、騒めきの後の静寂で、何か深い山奥の木立の中にいるようだった。私は仕事の関係で切開手術に立合ったことがある。そしてその時の医師と看護婦にいま私は手術をして貰うのである。別に淋しいとか悲しいとかで、あらためて自分を思い泛べたのではなかった。否むしろ俺が病気に先手を打つのだと妙に意気込んでさえいたのである。手術が始まると私は、二、三枚のガーゼで顔を覆われた。私の眼がぎょろぎょろしていると邪魔になるのであろう。それでも医師や看護婦の表情は良く見えていた。そしてすっと細い冷めたい線が咽喉を走るたびに、私の皮膚が肉が切りさかれ、コッヘルで左右に分けられ、局部を開いてゆく、そのコッヘルの数とメスの使い方で、私は手術の進んでゆく過程がおよそ想像できていた。その内小さな血管が切れ直ぐ処理された。私は一瞬はっとして起上りたい衝動にかられ、鼓動が激しくなるのを制しようとして、私は私を罵倒した。私は私が手術を希望したことを、私の心にたたきつけたものである。手術は三十分もかからないで済むのである。やがて太い鋼管を無理矢理押込まれるように、咽喉いっぱいにカニューレが入れられると、私は自分が息をしているのかどうか解らないのに、冷めたい空気が肺に流れこむ音を、ごうごうと聞きながら全身の力が何処かへとんで行くようであった。
 ベッドに寝かされた私は、カニューレの突張りで、一本の抗に全身がぴんと直立させられているようで、寝台車で運んでくれた部屋の人達が帰るのを待ちかね起きあがってみた。一寸首が動くと傷口にカニューレが当り灼けつく痛みを感じた。それを合図のように、私は手術を機会に止めようと思っていた煙草に火を付け大きく喫い込んだのである。するといきなりむせた。傷口から血が噴きでて咽喉のガーゼが真赤になった。何故そんな無謀なことをしたのか、後になっても私には解らないことだった。私は、痛さを噛みしめそっと横になり頭から蒲団をかむると、わけのわからない涙が溢れた。私はその夜、遠くの瀬の音と、夜がこんなにも静かなものであることを、生れて初めて知ったのである。
 プロミン薬の出現で、「咽喉切り三年」と言う言葉が、私達の世界から何時となく消えてしまった。消えてしまえばそれは何でもない事であった。そんな言葉を真剣な顔付きで使っていたことが何か間違っていたかのようでもある。若しプロミン以上の治癩薬が出来たらどうであろう。天刑病だ、かったいだと癩病を何故人間以下の者として扱い、侮蔑したのか理解に苦しむ時代が来るであろう。そして、さしあたり丘の上の、あの立派なコンクリートの納骨堂が残り、悲哀に満ちた伝説の島として、白砂を洗う波音と共に永久に人々の口に伝わるであろう。
 それはともかく、現在気管切開手術を受ける必要がなくなったばかりでなく、手術を受けていて、咽喉が癒えカニューレとお別れした者が多くある。私もプロミンの出現で 「咽喉切り三年」の手形を無効にして貰った一人だ。しかし私は、咽喉だけでなく鼻口の関係もあり、今もカニューレをはめている。咽喉の孔を癒やすと大方ロで息をしなければ不可ない事を考えると、カニューレを除くのが何だか恐いのである。それ程カニューレの息に馴らされてしまっているのである。
 そして朝起きると顔を洗うことが、極く自然な動作の一つになっているように、私は顔を洗う前か或は後に、カニューレの掃除をする。顔は例え洗わなくても気持が悪い程度で済むのだが、カニューレはそうはゆかない。一夜の眠りで痰がこびりついているのを、さっぱり拭い取らねば、頭の中まで何か濁ったものがいっぱい詰った感じで、息が苦しいのである。だからカニューレの掃除をすると全身に空気が流れ込み、私は血の色が鮮明になるのがわかり、凡ての細胞がふるに活動するのを覚えるのである。当り前だと人は息を吸うと言う、しかし私はカニューレの掃除をしたとき、吸うというよりむしろ空気が流れ込む感じなのだ。海辺の松林の澄んだ美しい空気の中に居ても、カニューレに痰がかかっていると、私は一切がひどく汚れていると思うのである。
 従って私は日に何回となく痰を拭うのが習慣になっている。しかしときには、ふいに過去が繰り広がり、はっきり鋭く刻み込まれている一つの線、一つの影を思い認べ追想のあだ花をむさぼるのである。想い出の中の私の顔にはまゆ毛があった、若い日の夢がそのままの姿で、時の流れに拭い去られず存在している。けれど失った声だけは何処にも見当らないのである。私の記憶のすべてをさかさにして振っても、不思議にはっきりしない。あのとき私はこんな事を話したものだと、その一言々々がよみがえるのに、その声がどんな音色であったか、全く解らないのだ。私はそんなとき、抜き出したカニューレに咽喉の温みが移っているのを、せつないまでに感じ、一寸した青錆まで丹念に拭い収るのである。何の目的で生きているのか、私は目的は存在するのかと言うより、カニューレは私の命の根源である。私はカニューレで生きているのだ、生きてゆかなければならぬと、心の底から思うのである。そして他人が見たら嫌悪感で、ぞっとするであろう。古びて壊れたカニューレを、私の最も大切な物のように、丁寧に箱にしまっている。まるで私が生きて来た確証ででもあるかのように。

              (青松昭和28年12月号より転載)

  

「閉ざされた島の昭和史」大島青松園入所者自治会発行
昭和56年12月8日 3版発行


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