閉ざされた島の昭和史   国立療養所大島青松園 入園者自治会五十年史

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入園者の証言と生活記録

ひとりしずか       足立 孝人

 トランク1つ提げて焼けつくような真夏の夕方はじめてこの療養所の地を踏んで以来、今年で丁度満33年目を迎える。
 温床育ちの都会っ子にとって、このいなかの病院は全くのところ、驚きと困惑以外の何物でもなかったが、今更あとへも引けず、もたもたしている間に容赦なく流れ去る月日と共に、入所時の健康度もまたたく中に失われて行き、障害の度合のみが遠慮なくそのパーセンテージを高めて今日に至っている。
 よくぞ今まで生き残ったものよと不思議な気持だが、戦時中の療養所は衣、食、住と三拍子揃いも揃って、あきれるばかり、病気を治すためにあるのか、悪化させるためにあるのか一体どっちなのだ、と反問したくなるような環境下での長期にわたる共同雑居生活に、自己の意志も嗜好も挙動すらもままにならない、言って見れば一睡の精神的なプリズンの状態にある思いであった。もっとも徴兵を忌避しての意味合いを多分に含んだ自発的な入所でもありはしたものの、矢張り籠の鳥の悲哀、島流し的境遇に涙をしぼったことも、ほろ苦い想い出の1つとして蘇って来ては心の古傷を痛めつける。
 家屋などと言えば聞えはよいが、ノミがひどいとかで畳は土間に積上げ、すきまだらけの床板上での起居、24畳敷と言えば一寸した大広間だが、そこで共同生活をしている病友の数もまた多く、定員は15名。押入れがまた素晴しく三間の上段に15人の身の回り品を1人半間の半分の空所へ入れるわけだが、上段だけでは12人分しか入らない。そこで下段の一間分をも使う。となると夜具類15人分は押入れ二間分の下段へとなるわけだが、さても僅か二間のところへ15人分もの夜具を如何にしてしまいこむか、と当初は不審に思ったものだったが、天の配剤と言うものは何時でも何処でも窮する者を助けるらしい、女房持ち2、3人は女房の寮へ行って泊るし、身体の故障ある者が絶えず2人や3人交代で病棟のベッド生活をするし、元気な者は住込みで看護に出かける等々で、24畳の部屋で常時寝起する人数は9人か10人位だ。それでも夜具の出し入れは天変だった。人数が多いのは極めて非衛生的で部屋中ホコリだらけ、押人れの中も開閉の度合が多いためゴミだらけの有様。
 気候が涼しくなって畳を敷くようになると、毎夜物凄いノミの襲撃で白いシーツは一夜で真赤になって終う。加えて南京虫も共同作戦に出撃して来る。そして冬に念の入ったことに丹念に飼育(?)したシラミのおすそ分けに与ったのにはホトホト弱った。大勢の雑居暮らしの煩わしさは参ったものである。
 終戦後、数年たって諸般の事情も次第に好転の兆を見せ始め、新らしく夫婦寮が建てられると、独身者は独身者だけのグループとなり、不自由寮へ転寮する者、軽快退園して故郷へと帰る者、帰天する者など、相次いで一頃の15名は6、7名程度に減少し、雑居の中にもゆとりも出てくるようになった。と角する中に、24畳の大部屋は次々と順を追って改築され、12畳に3人の定員制へ近づいたと言える。
 衣食足って……云々の諺にもあるように、患者たちの身辺も何かにつけて潤沢となり、どうやら個人的にも人間らしい昧わいを帯びた生活洋式が展開されるようになったのは、時世の推移とは言うものの喜ばしいことであった。12畳の部屋も3人から2人となり、今では1人で悠々と暮している人が多くなって来た。社会と異なって車こそ持たないが、電気製品の一通りは殆んど各人毎に整えられ、充実した日常生活をエンジョイしている。

 入園以来、20数年にわたって住み馴れた寮より健康の低下のため不自由寮へと転じてから、最早や7年が過ぎ去った私の現在の部屋は8畳だが、旧式の大部屋を改造したものだけに押入れの設定が不味く、定員2人住まいで半間の押入れしかない。
 リハビリして大阪で会社勤めをしていた病友が、病状が少々再発した懸念もあるので、暫く休暇をとって治療のため再入園して来た。半年ほど養生して、また帰る予定だったらしい。夏の初めのことで、スーツケース1つの身軽さでやって来たが、さて病状も幸いと好転して、いざ帰ろうとして身辺の整理をと見回し余りにも身回り品の量が沢山ふえているのに今更吃くりしたそうである。わずか半年余りの生活にして然りである。長期間この地に定着する者にとっては、平素は気付かないことだが、いざ転室でもしようとすれば改めて荷物の量の多さに一驚する。トラック1台分位は優にあるのだから。
 成可くきちんと片付くようにと、段ボール箱に詰めて運び込んだ荷物に埋まって、半間の押入れにどの様に片付けたらよいのか、私は途方に暮れた。全く動きがとれないのだ。
 だがその当時、8畳に2人の雑居暮らしをしている人たちの数はとても多く、誰しも狭い押入れに悩み困惑していたもので、後からやって来たカラスが不足など言えた筋合ではなかった。何とか打開しなければ寝る場所もない。数日間は寝起きの度に箱の山を南側から北側へ、北から南へと移動させて一時しのぎの策を取っていたが、思い切って、例えば座ブトンなど人に頼んで引取ってもらったり、大フトンなどは友人の所へ預ってもらうとか、苦肉の策に頭を痛めたものである。
 辛さ、不使さを共有するという点では療友たち同じ境遇を昧わっている者たちは、良く辛抱もし、忍耐することに努力を傾ける。相互が共通した悩みの下にあって、何とかしたい、して欲しいとの望みは切実そのものではあったが、曙光は殆んど見えず、ひたすらに時の満つるのを待つ以外処置なしであった。
 ところが皮肉なことに、ここ2、3年の間に隣近所の各寮など1室に1人暮しが殆んどとなり、私の寮も5室の中3室まで、同居者が死亡したり、他へ転じたりして、その結果、8畳に1人ゆったり住めることになった。
 向い側の寮など12畳に1人宛悠々と広さを満喫している有様だが、私のところは依然として2人である。同じタイプの窮屈な思いをしている仲間は5組、10名であったが、周囲の療友たちがのんびりと我が世の春を謳歌しているのを目の辺りにしては、自分たち10名だけがまるで継子扱いを受けてでもいるかのような、やる瀬のない忿懣の日々を送ってもいたものである。
 最近では各人がそれぞれ冷蔵庫を所有し、左利きはビールを冷やし、肉類など貯え、食生活に張りを持たせるようにもなった。恐らく10人中9人までは備えてもいる必需品の1つともなっている。猛暑の時期などには不可欠な品と言うべきだろう。
 だが私には冷蔵庫はない。むかしの江戸ツ子は宵越しの銭は持たねぇんだなどと啖呵を切って、負け惜しみをカバーしたものだが、同じようにチョンガーは宵越しの食物なんぞ置かねえんだ、冷蔵庫なんて要らねぇよッ、と表面は強いことを言って見ても、そこはそれ、彼も人なら我も人の子である、日中には冷たいジュースの1本も飲んで見たいし、折角のバター、チーズ、卵などを腐らせたり、カビさせて終うのも業腹だ。99%の療友たちが、むしろ当り前のこととして使用しているこの品を、如何ほど欲しいと切望しても、置場所のない始末では、唯々、切歯扼腕する外ないのだ。
 この初夏、重不自由者センターの新築が完成、素適な個室へ入居した人たちは、従来までの雑居生活から解放された自由、気楽さの喜びに無上の幸せを感じている。そんな喜びの声が伝わるにつれて、その反響は、依然として取残されたままの8畳2人組の人たちの不満を一層増大させる結果となって、「黙っていれば何時までたっても、現状に満足しているものと認めて放任されたままだ。なるならんは別としても、一応我々も何とか場所的にゆとりのある生活の出来るよう善処方を要望しようじゃないか」と衆議一決、遂に機は熟したわけでもある。
 誰かがロを切って自治会執行部へ上申せねばとなり、結局寮長懇談会での要望事項の形を以って、2人組一同の窮状を訴えたのが6月上旬のことであった。
 実のところ、私たちは余り期待をかけてはいなかったのだが、さて蓋を開けて驚いた。自治会々長と執行部の溢れるばかりの誠実さと、空室を持った夫婦寮の人たちの好意 と相まって、事は予想外にとんとん拍子で運び、むしろ周章てたのは要望を提出した私たち一同の方であった。こんなスピーディに処理されようとは意想外でもあったが、喜びもひとしお執行部諸氏の骨のあるところを如実に示され、感謝感激と言うところであった。
 8月1日に各人の転寮はとどこおりなく終って、30数年来の宿願がやっと物になったことは、長年の思いが遂に相手に通じた2度目の初恋(?)にも似て、楽しさに心も浮き浮きの心境とでも言えようか。

              (青松昭和50年H月号より転載)

  

「閉ざされた島の昭和史」大島青松園入所者自治会発行
昭和56年12月8日 3版発行


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