閉ざされた島の昭和史   国立療養所大島青松園 入園者自治会五十年史

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入園者の証言と生活記録

待つ心       吉田 美枝子

 この島に来てから、もう何度お正月を、新しい年を迎えるのだろうか、ふと指を折って数えてみる。すると、今度迎えようとしている52年の新年で実に34回目ということになる。なんとまあ長くこの小さな島で、療養所で暮らしてきたものだと今更ながらつくづくと自分自身をふり返ってみる思いである。
 私は何も最初から療養所を終生の場として入所してきたわけではない。1年か2年、長くても3年目には良くなって家に、父母のもとに帰るはずであった。しかし治療らしい治療もなく、また食べるものすら充分ではなかったあの終戦前後の6年間が、私の病状を決定的なものにしてしまった。もし6年遅く入園していたら……また戦争など無く、6年早くプロミンがアメリカから来ていたら……と思うことがある。だが、それは愚痴というものであろう。否応なく療養所が私の生涯を生きる場であれば少しでも人間らしくと望み、じっくりと腰を据えて、いちどしか無い人生をこころ豊かにと願うのだけれど、やはり心の奥深くでは、いつか此処を、この島を去る日を待つ思いがゆらめくのである。
 療養所という社会の空しさを身に沁みて昧わったのは、島に来て初めて迎えたお正月であった。少女だった私にはまだまだ、お正月は華やかで楽しく賑やかなものであった。父母のもとを離れ只一人、家族でない人たちの中で迎えるお正月の佗しさなど想像できなかった。年末には、乏しい食糧事情の中からあれこれと整えたお正月の品々を携えて、母が面会に来てくれた。そして、お雑煮の作り方などをこまごまと教え、3ヵ日を済ませたらまた来るから、元気で風邪をひかないように、よい年を迎えなさいよ-と言い  置いて帰っていった。私はわが家とは全くちがう雰囲気の中で、それでも浮き浮きとした気分で昭和19年の元日を迎えた。当時は今とちがって24畳という大きな部屋で12人が起居を共にしていた。誰もみな恐らく精一杯の気持で新年を迎えていたのだろうと思う。暗いうちから起き出して、山の神社へ参拝する人、それぞれの宗教のお堂に詣る人、また、園内作業で止むなく不自由者寮への付添看護に行く人などで、みんな早起きをした。そして、この朝は誰の顔もすっきりとしていて、丁寧にひとりひとりに新年の挨拶を交わすのだった。やがて炊事当番が、中央の大炊事場から手押車でご飯と味噌汁を運んできて、元日の朝の食事となった。いつもの黒い丸麦のご飯に変って真白いお米のご飯が印象的だった。しかし誰ひとりお雑煮を炊く人などいなかった。ただ、焼いたお餅をめいめいの椀の味噌汁に入れる程度で、作業のある人はそれさえしなかった。朝の食事を済ませると、皆それなりにお化粧などして晴着に着替えるのだった。そのころになると、ぽつぽつ年始廻りの人たちが来始め、帯を結ぶ手をとめて挨拶を返すといった落ちつかなさである。会館で行なわれる拝賀式に行き、近所の寮への年始を済ませると、後はもう何処へも行くところがなかった。うち揃って街を歩く昂奮も、映画館に入って映画を見る楽しさもなかった。良い品ではなかったが初めて手を通した着物の長元禄の袂を膝に坐っていると、急に家が家族が恋しくなり、友だちの楽しそうな顔が浮かんできたりして泣きだしたい心境だった。そんな私の姿が目についたのか、おこたの上で花札遊びをしていた人らが「ミイちゃん、山へでも行かん……行こうよ」と誘ってくれた。私は「山へ?」と反問しながら、山へしか行くところのない空しさをどうすることもできなかった。余り気乗りしない私へ、年配のおばさんは「今日は天気もいいし、山の松の木にきれいな姿を見てもらってきたらええ」と口を添えてくれた。
 山というのは、大島神社とよばれる小さな杜もあって退屈しのぎによく人々が出かけてゆき、この丘を一周する〈相愛の道〉は唯一の散歩道であった。現在も多くこの道を朝に夕に散歩しているが、当時は健康保持のためというより無聊を癒やす術の散歩であった。
 私は誘われるままに連れだって山道を歩いた。着飾った嬉しさに友だちと八幡様への田舎道を歩いたり、山の公園を歩いたこともあったけれど、初めて島でのお正月に歩いた言いようのない佗しさを今も忘れることができないし、神社の境内から望んだ高松の街と、それを隔てている海の寂しい広がりが鮮やかに目の底に残っている。
 夜になり、おばさんたちの主人やその友だちの男の人々も大勢来て、賑やかにカルタ会やトランプ遊びなどが始まり、私の憂鬱はゲームの面白さ楽しさでいつしかふっ飛んでいた。そんなお正月の日々が過ぎてゆき、私を案じた母が面会に来た。しばらくあれこれと話したあと母は「どうお雑煮は上手に炊けたの?」と聞いた。とうとう一度も炊かなかったことを私が言うと、「どうして……」と訝しみ「お鍋も炭も持ってきてあげといたのに」と言った。私は急に何だか腹立たしくなって「そんなこと言っても、めんどうだったもの…」と、そっけなく答えた。黙ってじっと私を見ていた母は話を変え、元日には私の陰膳をみんなの膳に並べたこと、毎年お正月のあいだだけに用いる俵箸の箸袋に、父が私の年と名を記したこと、妹や弟が私の写真に挨拶をしていたこと、まだ何も知らぬ弟が「大きい姉さんはいつ帰ってくるん、お誕生日には帰る……」と聞いたことなどを話した。そして「お父さんはね、今年の誕生祝いは止めとけって言うんよ」と、つけ加えるように言った。私の生れ日が1月1日であり、父のそれは17日であるところから、毎年いつも2人いっしょに父の生れ日に誕生祝いを行なってきた。1日では来客もあり、家のしきたりで元日には刃物を使っての料理は禁じられていたからでもあった。母は「美枝ちゃん、辛いこともあるやろけど、我慢して早く良くなって帰ってきてね、そして今年の分を併せて賑々かなお祝いにしようね」と慰めるように言った。私は今すぐにでも連れて帰ってもらいたい気持をおさえて肯いた。うなずきながら、1年は遠い、随分遠いな、と思った。
 あれから33年、この島からの脱出を望み、その望みは儚い幻になろうとしている。10代の少女は50に近い年配のおばさんになった。南海の島に流された俊寛僧都ではないけれど、待つことの苦しさもどかしさは長い年月の間に燃焼して、すべてを受け入れようとする静かな祈りとなっている。父はすでに故人となり、母もひとりでは面会に来られなくなって私の帰ってゆく場所など何処にもないけれど、やはり新しい年を待つ心は何やら楽しく好きなのである。あと一と月余りでまた新年……私の誕生日が朱ようとしている。

              (青松昭和52年2月号より転載)

  

「閉ざされた島の昭和史」大島青松園入所者自治会発行
昭和56年12月8日 3版発行


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