わたしはここに生きた   <盲人会五十年史> 国立療養所大島青松園盲人会五十年史

                   本書をハンセン病盲人に愛と理解を寄せられた多くの人々に捧げる

目次 Top


第2部 「灯台」の群像

 第1章 離 郷

 10 強制収容            八木田 久男

 私は農家の末っ子に生れました。上の兄弟たちはそれぞれに職を持ち、大阪に出ておりましたので、私は年老いた両親と共に農業ひとすじに働いておりました。そのうち徴兵検査の年齢となり、たくましく陽焼けした体は甲種合格になりました。
 翌年1月に、歩兵第8連隊第9中隊に入隊し、軍律のきびしい中、演習訓練の毎日でした。ある日、同じ中隊の一兵士が外出先より戻り、チフスを患ったため、中隊全員の者が隔離されました。予防注射をして班に戻り、少し経ったとき、脛から水の流れるような感じがしたので不思議に思い、足を見ると軍足がぬれていました。これは?と思い、急いでトイレに行ってズボンをまくり上げて見ると、膝に餅ほどの水ふくれが出来、それがつぶれて薄皮がこよりのようにへげかかっているのを見て、ぞっとしました。兵舎にもどり、寝台に腰をかけ、不安のあまり戦友に話そうかと思ったが、支那事変前でわが連隊からも毎日のように外地に向って出ている時なので、話すことも出来ず、人目をしのんで傷に歯磨粉をつけ、古い軍足をつなぎ、トイレに行っては交換をして、教練に励んでおりました。そのうち傷は深くなり、顔色も蒼ざめ、遂に班長の目にとまり、事情を話したところ、「練兵休」にしてくれ、毎日医務室に通うことになりました。しかし、傷は思うようになおらず、外地に出て行く兵士たちを見ると、口惜しくてなりませんでした。そうするうちに福戸の陸軍病院に送られ、離れた個室に入れられました。そして毎日のように私のベッドの回りに軍医が5、6人来て、血を採ったり、体のしびれた個所はないかと調べたりするので、私は不安がつのるばかりでした。また眉毛が抜けはしないかと聞かれ、初めてらいではないのかと、胸に釘を打たれるような思いがしました。軍医に幾ら尋ねても病名は言ってくれず、都会は空気が悪いから、田舎へ帰って養生すればよくなるから帰りなさい、と除隊命令が出たのでした。
 入隊する時波止場で、日の丸の旗をはじめ5色のテープ、軍楽のひびき、万歳、万歳の声に励まされて発って来たことを思えば、今更しょんぼり帰れるかと思ったが、すべてが命令なのでどうにもならず、幸い近くに叔父がいたので電話で知らすと、軍服、帽子、靴までそろえ、朝早く迎えに来でくれました。叔父には痔で帰されるのだと話しました。1人で帰るのであれば、何処かへ働きにでも行こうかと決めておりましたが、軍医が家まで付添って来たのでどうすることも出来ません。軍医は私を家にとどけると何も言わず帰って行きました。突然のことで両親は驚きましたが、私は痔の病気で通し、それぐらいなら良いわ、と両親や親戚たちも安心してくれましたが、私の心の傷は深く悲しみでいっぱいでした。そうして5年余り農業に励んでおりましたところ、顔が少し赤くうわばれ、眉毛も人目につくように薄くなり、このような症状が出始めては隠すにかくされず、両親にうち明けました。それからは家庭も暗くなり、不安な日々が続いておりました。
 昭和18年の秋ぐち、長島の療養所より収容に来て、早く治療すれば半年ほどで治って帰れるからと勧められました。しかし急に言われても、老いた両親を残してはどうしても行けない、もう少し延ばしてくれるように、お願いをしましたが、聞きいれてくれませんでした。やさしかった言葉も次第にきつくなり、
  「素直に言うことを聞かないと、繩でくくってでも連れて行く」
 と、土足のまま上りこんで私の腕をつかんで引立て、罪人でも扱うようでした。この騒ぎが近所へ聞こえ、何ごとかと押しかけて来ました。私は怒りのあまり何も分らなくなり、両親も嘆き悲しんでおりました。誰が知らせてくれたのか親戚の人たちもかけつけてきてくれました。騒ぎの続く間に車が来て、私は思いきって車に乗りました。中には県の予防課、また収容に来た療養所の人たちが待っていました。私が前の座席にすわると、両親は窓にとりすがって。
  「あんな所へ行ったら、薬や注射で殺されるのや」
 と泣きくずれ、近所の人たちも車をとりかこんで別れを惜しんでくれました。運転手は車を出そうとしても、母が車にすがって離れないので動かすことができません。私は父に、
  「おかあさんをそちらへのけてくれ」
 と言って、運転手に早く車を出してもらいました。収容船の待つ桟橋に連れて行かれ、船に乗ろうとしていると後からかけつけて来てくれた親戚の者たちに、私はあとのことを頼み、母のことが気になるので、機嫌よく船に乗ったと母に伝えてくれるように言って、船に乗りこみました。船の中には12人の患者が、それぞれ寝たり坐ったりしていました。お互いに悲しさをかこち合い、弁当やおやつのような物をやり取りし、約8時間ほど船の上ですごしました。やがて長島の桟橋に着き、そろって収容所へ連れて行かれました。4、5日経って、それぞれの寮が定まり、私は軽症寮にはいることになりました。このような私の病気によって、両親や親戚まで世間から爪はじきされるのかと思えばたまらなかったが、思いなおして療養に励んでおりました。
 1年半ほどして、父が病気に倒れ、悪いとの便りが朱たので、1度帰りたく思い、分館に帰省願書を出しましたがなかなか許してくれませんでした。しかし、親に会いたくて矢も楯もたまらず、多額の金を出して漁船をやとって逃走しました。恐れと不安をいだきながら村に近づきましたが、昼間では人目につくと思い、夕暮れまで山にかくれ、暗くなってから、まず病気を嫌わない友人の家に立ち寄ってみました。都合よく居てくれて、
  「おお、よく帰って来たのう。どないしてもどったんやァ」
 と言うのへ、私が、
  「父の具合はどうだろうか」
 と聞くと、声を落して、
  「お父さんは亡くなって、きようで7日目や」
 と悔みをのべながら、ここでは人目につくから、と奥の間へ連れて行ってくれました。そして、
  「家には兄嫁も来ていることだし、そっとおかあさんをここへ連れて来てやるから」
 と言って、呼んでくれました。2日ほど友の家に厄介になり、兄や母が代わるがわるに来て、家のことや身の振り方について話し合い、安心して高松の沖にある療養所に行くことに決めました。前と違って気持もおちつき、みんなに別れを告げ、昭和20年6月10日青松園にはいりました。
 あれからもう25年、軽症であった私も無理な作業で手足をいため、内部疾患や失明など二重三重の障害を持つ身となり、現在は不自由寮で静かな療養生活を送っていますが、かつて受けた強制収容、そして父の死に目にも会えなかった辛さ悲しさは、生涯忘れることは出来ないと思います。

  




「わたしはここに生きた」大島青松園盲人会発行
昭和59年1月20日 発行


Copyright ©2008 大島青松園盲人会, All Rights Reserved.