わたしはここに生きた   <盲人会五十年史> 国立療養所大島青松園盲人会五十年史

                   本書をハンセン病盲人に愛と理解を寄せられた多くの人々に捧げる

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第2部 「灯台」の群像

 第1章 離 郷

 9 残された日日            森  かおる

 今から30年余り昔のことですが、ハンセン病特別列車で高松へ到着した私は付添いの兄と一緒に思いもよらぬホームから離れたところにおろされました。 すると色の黒い男の人が、小さい紙きれを持ってつかつかと私たちのはうに歩み寄って米て、ぶっきらぼうに、
  「あんたは、この人ではないか」
 と言いながら、その紙切れを見せ、うなずいた私に、
  「私はあんたらを迎えに来たんじゃからついて来なさい」
と先に立って船着き場の方に歩き出しました。そこは予想していた桟橋ではなく、大島丸としるした船にロープでつないだ伝馬船の浮かんでいる石垣の上でした。その男の人は馴れた足どりで大島丸に飛び移り、私たちの方に向いて、
  「荷物を持ってその伝馬船に乗るんだ」
 とあごで命じました。伝馬船から大島丸へ乗るものと思っていた私達が伝馬船に乗りこむのを見ると、男の人はロープをゆるめ、さっさと船室へ入ってしまいました。やがてトントンという船音と共に引かれはじめた伝馬船の中で、兄の表情がさっと変ったのを私はみてとりました。
 覚悟はしていたものの、こみあげてくる涙をどうすることもできず、二人はただ押しだまったまましぶきのはいる伝馬船の中でうずくまっていました・そして私は;島流し……″と云う言葉をかみしめながら大島に着いたのでした。砂浜には白衣を着けた方が待っていて松林をぬけたところの建物に案内してくれました。その家の横は櫛になっていて、
  「ここからは患者区域だから、あんたは向うへ行くことは出来ません、話があればあちらの面会所でしなさい」
 と兄を連れて職員の方は行ってしまいました。私は1人とり残された心細さを覚えながら立っていると、患者さんと思われる方が来られ、その人に連れられて分館に入り、住所、氏名、生年月日、宗教などを聞かれたのち、新患者収容所というところに入る事になりました。兄もその日のうちに別れをおしみながら帰って行ったのです。そこで3日間をすごすうちに、看護に当って下さった方から、24畳の大部屋に12名で共同生活をすることや、自治会の指示にしたがって作業をしなければならないこと、また婦人会に入り、綻び縫いや大掃除、障子洗いなどの奉仕もしなければならないことなど、患者心得についてこまごまと教えられました。私が伝馬船で引かれて来たみじめさを話すと、看護人さんは。
  「その色の黒い男の人は大島丸の船長さんなんよ。あんたは家庭から来たからまだいいほうですよ。四国遍路をしていて収容された人たちだったら、もっともっと軽蔑した扱いをされるんですよ」
 と言われ、たとえ病気であっても同じ人間であるのにと憤りを覚えずにはいられませんでした。
 それから私は決められた寮に入りましたが、見るもの、聞くものすぺて想像以上で胸をしめつけられることばかりでした。しかし、月日のたつにつれて部屋の人や、周囲の人とも親しくなり、共同生活にも馴れ、作業にもつきましたが、心の空虚さはどうすることも出来ませんでした。そうした時、同室の人の中にクリスチャンの方がいて、親切に誘って下さり教会に通うようになりました。毎日のように教会に行き、聖書を学び讃美歌を歌ったりしているうちに、いつか心にほのぼのとした希望を見いだすようになりました。
 ところが昭和12年7月7日、日支事変が起り、それが大東亜戦争となって私たちの療養生活にも深刻な影響をおよぼし、治療薬や物資の不足は言うに及ばず、それはみじめな明け暮れが10年近くも続きました。けれども皆が、自治会の指示のもとに一致団結し、弱い人、元気な人の区別なく乏しい物もわかち合い、いたわり会って、早く平和になることを祈っておりましたが、思いも上らぬ敗戦ということで戦争は終りました。今まで張りつめていた思いが一度に崩れ、ただ途方に暮れるばかりでした。
 その頃から私にとって1番大切な眼が悪くなり、治療薬の不足なども手伝って遂に失明してしまいました。それからの生活の不白由さは1通りではなく、とても言い現すことが出来ません。混乱した戦後の暮らしも落ちつくにつれて、だんだん物資も出廻り、社会の復興と共に療養所も明るさを取りもどし、すべての処遇が改善され昔と違った華やかな時代となってきました。また新薬プロミンなどの出現によって病気が良くなり、年を追って社会復帰者も増え、一時帰省や旅行も簡単に出来る上うになり、かつて伝馬船にひかれて来た日のことを思えば、お殿様と乞食はどのひらきを感じます。
 私も眼が見えていたら、この手が良ければラジオやテレビで聞く、社会にも出られるものをと思います。しかしその反面「お前はクリスチャンであり、希望や目標が与えられているではないか、お前の国籍は天にあるのではなかったか」というささやきも聞かれます。こうした2つの思いに苦しむ弱い私ですが、聖書に「たとえ人は全世界をもうけても、自分の命を損じたら何の得になろうか」の聖言に励まされ、不自由ながらも杖を頼りに盲入会や教会に通っております。苦しかった過去を顧みるとき、現在の恵みを感謝し、残る生涯をクリスチャンとして、良き療養人として全うしたいものと願っております。

  




「わたしはここに生きた」大島青松園盲人会発行
昭和59年1月20日 発行


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