第2部 「灯台」の群像
第2章 失 明
11 盲 妻 森川 ゆきみ
時計が午前10時を打って間もない頃、突然あわただしいゴム靴の足音が、私の寮の横を通り過ぎ、隣との狭い露地を入って行った。あの足音の主はどこへ行く人だろう。右へ曲れば隣りの寮へ、左へくれば私の寮へ用事のある人だ。なんとなく胸騒ぎを覚えた私は聞き耳をたてていた。足音が左に来たと思ったら
「石本さん、いるかな。安岡さんが製材で手を落した」
と叫んだ。書き物をしていたらしい石本さんはびっくりした声で
「怪我をしたって、どこをどの程度かな……」
と聞いている。
「右の手を人さし指から小指までみんな切って、四本の指が手の内側へひっついとるんじゃ、それに親指も切ったようじゃ」
と、あわててきたらしく、あえぎあえぎ答える声が聞こえた。
「もう安岡さんは治療室へ来とるんかな、医務課や、事務所の方への連絡は……」
「それはみんなが手分けして行ったから連絡はとれとるじゃろう。わしはこれから治療室へ行くから、後のこと頼みます」
と言うなり、石本さんの礼の言葉も聞かずかけて行った。石本さんが廊下へ出たときには、寮の人たちはさっきからの話を聞いて玄関へ出ていた。みんなは石本さんを囲んで話し合っているようだったが、すぐ揃って出ていった。炉燧に寝ていた私は夫が怪我をしたと聞き、頭の血がいち時に引いてゆくのを感じ、やっと敷布団の上に坐り直した。あまりの出来事にただ茫然として、隣りの話し声を何か遠くのことのように聞いていた。
病気のせいで徐々に手が悪くなったのであればまだしも、一瞬にして指を無くしてしまった夫は、今どんな気持であろう。人一倍負けん気の強い夫は左手だけでこれからどうしてゆくのだろう。あれを思い、これを思って私の心は乱れた。こんなことになるのであったら、やっぱり休んでもらうのだった。今日は炊事当番なので仕事には行かない約束であったが、今朝になって急に
「今日は仕事に行くぞ」
と言い出した。私は
「今日は休むと言っていたのに」
と、ついとがめるような口調で言った。
「休む積りじゃったが仕事に追われとるし、外の人にも悪いけん……」
夫はもう仕事に行くことに決めている。私はなぜだか今日は行ってもらいたくなかったが、いったん言い出したら私の言うことなんか聞いてくれる夫ではないので、しぶしぶ口をつぐんだ。あのとき叱られてももっと強く言って休んでもらっていたら、こんなことにはならなかったのに、夫が怪我をしたのは私のせいのように思えてくやまれた。
しばらくすると弟が来て「兄さんが寒がっているから」
と、押入れからオーバーをとり出し、そそくさと出ていった。遠ざかる弟の下駄の音を聞きながら、私は外科の手術台で出血多量のため、蒼白な顔をして、血まみれの右手をしっかりと押さえている夫の姿を思い浮かべていた。こんなときにこそ1ばんにとんで行って介抱してあげるのが夫婦というものなのに、私は4畳半の個室に独りポッネン
と坐っていなければならない。この眼がぼんやりとでも物を見ることができたら、と情ない自分を思ってくやし涙がながれた。
正午のサイレンが鳴ると間もなく寮の人たちが帰ってきた。
「えらいことやった。やっぱり休んどくやったのう」
声といっしょに障子が開いて夫が入ってきた。手術のあとそのまま病棟へ入室したものと思っていた私は驚いて
「そんなに動いてかまわんの」
ときいた。
「先生はすぐ入室するように言うたが、お前のことも気になるし、車に乗って帰ってきた」
と言いながら夫は火鉢の前に坐った。こんなときにも私のことを思ってと、目頭が熱くなった。私はさっきから「手術の結果はどうなったの」という言葉がのどもとまで何度も出かかったが、どうしても聞くことができなかった。
結果を知るのが恐ろしい気がしたし、今そんなことを聞くのは残酷なように思えた。夫も私に心配さすまいとしてか、怪我のことには触れず、話し声も不断とちっとも変らないので、眼の見えない私には、怪我をしたというのは錯覚ではないかとさえ思った。昼ご飯を食べ終ると、夫は担架車で病棟に入った。
夕方になると親しい人たちがつぎつぎに訪ねてきて「安岡さんは先生や看護婦さんが付いてくれているからあまり心配せんように」と繰返し慰めの言葉をかけてくれた。みんなが帰って独りになって寝床に入ると、今朝からの張りつめた気持が一時にゆるんで、涙があとからあとから堰を切ったようにあふれてきた。私は眼の見えない上に体が弱く、いつも高い熱を出して入室していた。汗でびっしょり濡れた寝巻の洗濯から、のどを通らない食事の世話まで、夫は夜も寝る間がないほどであった。そんなにまでしてもらっていながら、今日のようなときに何の役にも立たない私を、夫はどんなに思っているだろう。眼の見えない女といっしょにいるのはもうこりごりと思っていたらどうしよう。今更独りになることなど到底考えられない。ふと死ということが浮かんできた。私は慌てて打ち消すように頭を振った。そして今日ほど眼の見えない悲しさを切実に感じたことはなかった。
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