第2部 「灯台」の群像
第1章 離 郷
8 静かな生活を 故 白 木 福 一
私が療養所に強制収容させられたのは、昭和17年9月でした。
ちょうど夏の初めから、老朽していた納屋を建替える工事にかかっていました。材木を取り揃えることから、何もかも自分1人の手でやらなければならないため、思うように仕事ははかどらず、ようやく瓦を上げるようになったのは9月23日でした。明日は屋根をふくだけだと、その日は早く休み、くつろいでいるところへ、衛生課の人といっしょに巡査が来て、
「今夜、療養所に行ってもらうから……」
と言いました。余り突然のことで私は驚き、
「今夜は行けません。ご覧のように、納屋を建てているので、あと1週間もすれば屋根もふき終ると思いますから、それまで待って下さい」
と頼みましたが、聞きいれてもらえず、言い合っているのを隣りの人が間きつけて来ていっしょに頼んでくれましたが、係官はどうしても聞きいれてくれませんでした。寝ていた4人の子供も起きて来て、
「お父さん、どこへも行ってはいけない」
と、私に取りすがって泣くのでした。しかし、係官が許してくれない以上どうすることも出来ず、子供たちをなだめて、仕方なく療養所へ行く準備をしました。そして、妻に線香とマッチを持って来させて、もう10時を回っていましたが、先祖の墓に別れを告げに行きました。
帰ってみると、先ほどの係官が、
「どこへ行っていたのか。心配していたところだ。自動車を持たせてあるから、すぐ行くように……」
と、私をせきたてるのでした。道に出るとトラックが止まっていて、係官は、これに乗るように、と言ったので、私は、
「荷物ではないんだから、トラックではなくハイヤーを呼んでくれ」
と言いましたが、
「そんなものは準備しておらないので、これに乗るように……」
と、無理矢理引っぱりあげてトラックは走り出しました。
駅に着いた時には夜も明けそめて、仕事に出る人たちがぼつぼつ待合室に来ていました。汽車に乗る時刻がきたので、プラットホームに立っていましたら、顔見知りの人が寄って来て、
「どちらへ行くのですか」
と声をかけられたので、私は、
「ちょっと、下関まで」
と言っているところへ列車がはいって来ました。私が急いで乗ろうとすると、
「それは違う、上りだよ」
と言ってくれるその人へ、
「上ってから、また下りますよ」
と冗談にまぎらせて、私は乗りこんだのでした。
こんないきさつがあって療養所にはいりましたが、子供たちからは、祭りや正月がくるたびに早く帰って来てくれるように、と便りが来ていました。昭和20年、やっと思いがかなって帰省することが出来、成長した子供たちを見ることが出来ました。小学校6年になっていた長女は私に、
「お父さんは病気でも、療養所にいるので何もお世話できないから、私は看護婦になります。高等科を出たら是非看護婦にさせて下さい」
と言うのでした。家庭の事情もありましたが、本人の希望通り看護婦にし、今もある病院に勤めています。
あれから20数年がすぎ、病状の悪化もあって私はとうとう失明してしまいました。現在では強制収容というようなことはなくなりましたが、療養所再編成の問題が起り、盲人は盲人ばかり収容する施設をつくるとか、いろいろと論じられております。どうやら、職員看護のもとに落着いた生活が出来ると喜んでいる矢先だけに、私たちにとって、再編成の問題は、大きな不安になっています。老い先短い私ですので、このまま静かな日々を送らせていただきたいものと思います。
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