わたしはここに生きた   <盲人会五十年史> 国立療養所大島青松園盲人会五十年史

                   本書をハンセン病盲人に愛と理解を寄せられた多くの人々に捧げる

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第2部 「灯台」の群像

 第2章 失 明

 12  眼球摘出           磯 野 常 二

 

(1)
 すぐ隣りにある大炊事場のすさまじい蒸気の音、看護婦の忙しく立働く足音、廊下で顔を洗っている人達の話し声や洗面器の音で、病棟の朝がはじまる。私は数日来の眼痛で痛み止めの頓服をのみすぎたため、口の中は苦くかわききっている。
 今日はうずく左眼の摘出手術を受けることになっている。それを思うと胸が締めつけられるようだ。20数年私を導いてくれたこの目を通して美しい自然を、真赤にもえる夕焼の空、田んぼ一面にひろがるれんげの花など、私は自分のものとして見てきた。それをすべて失わなければならないのだろうか。疲労しきった頭に親しい人々の顔が次々と浮かび、嬉しかったこと、悲しかったことが走馬燈のように思い出されてくる。                 「磯野さん、もう9時ですから、手術室へ行きましょうか」
 と看護婦が来て声をかけた。私は一瞬手術をやめようかと迷った。私は過去に虹彩切除の手術を2回受けたが、症状が悪化しすぎていたため成功せず、痛みが取れないので、ついに摘出手術を受けることになったのであったが、いざその場になると心がゆらいだ。ひょっとしたら、そのうち良い薬が出来て目が良くなることがあるかも知れない。摘出したら残った方の目が、友人が言ったように、痛み出すのではなかろうかという不安が胸をかすめた。看護婦は私の心の中を覗き込むように黙って立っている。うながされるままに起き上りベッドから降りると、重い足を引きずり小脇を支えられながら病棟を出た。

(2)
 眼科へ行くと、看護婦や治療を受ける人たちの声がしていた。私はその声の中をかいくぐるようにして手術室に入るとドアが締められた。手術台に寝かされると物音1つ聞こえず、真空の中におかれているようだった。主任看護婦が近づいて来て
  「洗眼しますから少し顎を上げて下さい」
 と言い、別の看護婦が頭を支えてくれた。洗眼がすむと目のところだけくり抜いた白布で覆われ、目の上にガーゼが置かれた。
  「手術を始めますからね」
 と部屋中にしみとおるような高橋先生の声がした。
 いよいよ手術が始まると思うと緊張で体が硬くなった。先生はゆっくりとガーゼを取り
  「麻酔注射をしますからね、ちょっとがまんして」
 と眼球に針を刺される度に無気味な音と痛みが走った。
  「視神経に注射しますから痛いですが、すぐ終りますからね」
 と同時に激痛が全身をつらぬいた。看護婦が手と脚を押さえてくれたが、私はもっともっと強く押さえていて欲しかった。数秒すると注射の痛みも感じなくなった。先生は
  「はい、鋏」
 と言って、手術にかかった。肉を切るパシリパシリというにぶい音。
  「この鋏、切れないですね。もっとよく切れるのはないですか」
  「これしかありません。もう1つは研ぎに出してあるのですが、まだ返ってこないのです」

 と主任看護婦の返事が聞こえた。だが手術は続く。私は切れない鋏が不安でもあり、腹立たしかった。鋏の音だけの静けさ。先生が、
  「痛みますか」
 と問われる度に、「ええ」とか「いいえ」と答えながら自分をまぎらすため、とりとめもないことを考えていた。
 私の目が痛み視力前なくなった当時、その苦しみの余り小声で歌を唄っていて、友人から
  「お前が、そうやって、歌を唄っているのをみると痛ましゅうてやり切れん」
 と言われたことがあった。こんな気持が看護婦に分って貰えるだろうか。機具のふれる音が冷たく耳元に響く。
  「もうすぐですよ、辛抱しなさい」
 と先生が言われた。パシッと大きな音がした途端、稲光りのような、光と激痛が脳髄に突きささった。
  「もうすみましたよ」
 と言われる先生の声が、遠くかすかに聞こえた。
 この時、視神経が切られ、眼球が摘出された。私は永遠に左眼を失ったのである。

(3)
 そして、1週間が経過し、先生の手で包帯がとかれ、ガーゼをはずし、目の周囲や中を丹念にぬぐってから
  「傷はすっかり良くなっていますから、抜糸をして、義眼を入れてみましよう」
 そして、糸を抜き、義眼を入れながら
  「あなたの目は茶目ですね、随分大きい目だね」
 とあれこれ、義眼を目に合せていたが、
  「あなたには、プラスチックの義眼を入れてあげましょう、これなら落しても大丈夫だから」
 と嵌められたが、少し瞼がこわばるようだった。
  「これで、2,3日様子をみてみましよう。少し目尻が開いているが、あなたはまだ若いから、ちょっと縫い込むときれいになりますよ」
 と言われた。
 森看護婦に手を引かれて治寄棟を出ると、春の日射しがやわらかく頓に触れた。その時、ふいに私は、押し入れの前に坐って、1日中柱時計の音をじっと聞いている盲人の姿が浮んできた。今私かそうなったのだ。そう思うと、深い闇に引き込まれてゆくのを覚えた。危うく崩れそうになる体を、
  「危ないですよ」
 と森看護婦が支えてくれた。私は義眼の奥からにじみ出てくる涙を押さえた。森看護婦は私と同じ年で、当園の准看護学院に在学中胸を悪くし、高松療貴所に入院していたが、その頃から私と文通が始まった。
 私は目が痛み、視力もおちてからは、いろいろと苦しみ悩んで自殺を考えたこともあった。その度に病床の彼女から励ましの手紙をもらった。彼女は両親の強い反対があったにもかかわらず、死を決して胸部成形手術を受けたという。そして肋骨を教本も取りながら、看護婦として立ちたいという希望から学院を卒業し、今は准看護婦として勤務している。
  「森さんにこんなにお世話になるとは思わなんだよ」
 と、つらい思いから逃れるように話しかけた。すると
  「そーお」
と、小さく言った。私は、それで充分だった。付き添われて歩きながら、次から次へと思いつくままに喋っていると、救われるような気がした。彼女はやさしく相づちを打ち、白分からは何も言わなかった。
 病棟の近くに未だ時、彼女は、
  「しっかりしましょうね」
 と言った。私は、くじけずに、強く生きていかなければと思い、1人で冷んやりした春の病室に入っていった。

  




「わたしはここに生きた」大島青松園盲人会発行
昭和59年1月20日 発行


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