わたしはここに生きた   <盲人会五十年史> 国立療養所大島青松園盲人会五十年史

                   本書をハンセン病盲人に愛と理解を寄せられた多くの人々に捧げる

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第2部 「灯台」の群像

 第4章 生きる

 40 船遊び          半田 市太郎

 雨が気にかかり、昨夜はぐっすり眠れなかった。私は、時計が5時をうつと、早速ラジオのスイッチを入れた。天気予報は、「雨のち曇、所によってはにわか雨、海上は多少風波があるでしょう」と報じている。
 今回の事業計画として、リクレーションを取り上げることとになり、森繁久弥で有名な兜島へ行こうと言う者、屋島、八栗を希望する者、又は風光明媚な海の銀座の船遊びを主張するものなど、いろいろな意見が出て、その調整は難しかったが、最終的には船遊びと決定し、白治会におねがいすることになった。
 去る38年より、一般入園者を対象にバスによるリクレーションが行なわれており、今春は大型の貸切りバスと園の小型バスで、鳴門の渦潮を見物、眉山に登り、帰途津田の松原に立ちよるというコースで実施され、中でも大型バスのガイドさんのサービスが満点だったとの話で、私達盲人を刺激して、船遊びへの期待を一層盛り上げた。自治会の諒解も得て、日時は7月1日、船は大島丸、コースは岡山県玉野造船所、宇野港を廻り、所要時間は約2時間半、帰園は正午ということに決まった。それで参加者を募集したところ、男女合せて28名の希望があった。
 午前8時30分、参加者は盲人会館に集まって来た。空を仰ぐと今にも泣きだしそうな雲行きだという。会長は、
 「俺は日和男だ、ついているんだから心配ないさ」
 と笑っている。神経痛や発熱のために、残念ながら参加をとり止める会員からの連結、天気は大丈夫だ、元気で行って来い、と激励の電話など、あわただしい。今日の船遊びに、自治会から出してもらったジュースやパンを桟橋へ運ぶやら、お茶をポットに入れるやら、世話係はてんてこまいだ。皆が予定の時間より少し早めに桟橋へ出ていくと、すでに自治会の総代始め執行委員の方々が待っていて、私たちの乗船を手伝ってくれた。予定の9時30分出帆合図のベルとともに、大島丸はすべるように桟橋を離れた。
 左に屋島を、右に矢竹島、この島はその昔源平の戦に竹を切って矢を作ったと伝えられている。やがて女木島、男木島にかかる。高松より海上2キロにあって、特に女木島は挑太郎の伝説で名高く、一名鬼が島とも呼ばれ、海賊の根城であった洞窟は往時を偲ばせるに充分だという、女木島と男木島の間は約1キロ隔たっていて、最近引かれたという高圧線の鉄柱が島の両端に立っている。そこを通りぬけると、近くの漁船が大きなタコを釣りあげたと附添の木村さんがおしえてくれる。木村さんは分館に勤務しておられ、地理に明るいところから今日の船遊びについてきて下さったのである。この他に岡鼻婦長さん、外科の看護婦さん達も乗船して下さったので、私達は心丈夫であった。
 船はエンジンも軽やかに速力を上げ、西へと走る。木村さんのガイドで、
  「間もなく水航路です。あそこに見えるのが宇高フェリーボート。あ、貨物船が来ました。少し揺れますよ」
 と言っている間に、大島丸は大きく揺れだしたので、誰かが「ワアー」と驚きの声をあげた。
 「気分の悪い人はありませんか。大丈夫ですか」
 と看護婦さんが廻ってこられる。船首の方では、若い島田さん達がハーモニカを吹き、海の歌を唄っている。その頃から気づかっていた空も明るくなり、雲間から初夏の太陽が顔をのぞかせ、涼風が吹きぬける。私達の船遊びを祝福してくれるようで、来てよかった、来てよかったと、話合っている。
 精錬所できこえた直島に船が近づくと、硫黄の匂いがぷんと鼻をつく。
 「いよいよ玉野造船所ですよ。今造船中の10万トン級タンカーが赤、青、黒に塗られた船腹をこちらに見せています。その横には姉妹船らしく同じ色の4、5万トン級のタンカー、その隣りにも1つ、2つと並んでいます」
 という説明を聞いて驚きの声をあげた。その時、前の方から、
 「腹がへったなァ、パンはまだか」
 と誰かが言ったので、それでは、とパンとジュースが配られ、みんないっせいに元気が出できた。船は速度を落して宇野港に入っていく。港には、先に私達の船を追いぬいて行った連絡船が着いており、遥か沖には小豆島通いの水中翼船が走っているという。時間を聞くと、11時を少し廻っていた。船はやがて速度を早め、今度は直島を右に見て、タヌキ島で知られる井島にかかると、水村さんはタヌキ島の謂れを面白く話してくれた。
やや疲れが出たのか、みんな言葉少なになって来たので、民謡部の藤本さんは、みんなで歌おうじやないか、と元気に音頭を取り、ソーラン節、串本節、南国土佐を後にしてなど、果ては盲人会歌まで飛び出し、エンジンのリズムに合わせて唄う歌声は、汐風に乗って後へ後へと流れて行く。オリーブで有右な小豆島、キャンプや海水浴場で知られと豊島、小豊島をみながら進路を大きくかえて大島に向かった。
 私達の願いが入れられ、初めて実現した船遊びだが、もしどこかに下船するとなれば、1人に1人の付添いは必要であろう。そしてゆくゆくはバスによるリクレーンョンにまで発展させたいものと思う。
 世話係の1人が、大島会館が見え出した、と言ったので、船内は急ににぎやかになった。船が近づくと桟橋には、私達を迎える人達が大勢待ってくれていた。到着を知らせる汽笛が鳴って船が桟橋に着くと、執行委員の方々が私達の下船を手伝ってくれた。1人の船酔いもなく、天候に恵まれ、楽しい船遊びが出来た。

  




「わたしはここに生きた」大島青松園盲人会発行
昭和59年1月20日 発行


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