わたしはここに生きた   <盲人会五十年史> 国立療養所大島青松園盲人会五十年史

                   本書をハンセン病盲人に愛と理解を寄せられた多くの人々に捧げる

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第2部 「灯台」の群像

 第4章 生きる

 45 氷雨のふる日          朝 滋夫

 わたしは浅い眠りから覚めた。何時頃だろう、と思いながら耳を澄ました。外は夜明けが近いらしく、息を呑んだようにしずまりかえっていた。かたわらに寝ている妻は、かるい寝息をたてている。京間の四畳半の壁際には、水屋、小さなタンス、そしてテレビなどが並べてあり、残りの広さに。2つの寝床を敷いているので、布団の端が折り重なっていて、たやすく寝返りできない。壁一重隔てた隣の時計が5時を打った。
 10日程前からはじめた自己催眠をしてみる。深く吸いこんだ息をしずかに吐きながら、手の先に神経を集中させるのだが、雑念が入ってなかなかうまくいかない。手が頭に吸いつくなどという現象はとても起こらない。しかし、何度か繰返しているうちに、とろとろと眠ったらしい。ふたたび覚めたとき、隣りは起きて布団をあげているらしく、押入れの戸を開けたてする音がしていた。おやじさんは、洗面用のバケツを持って外へ出てゆく気配がした。洗面用のバケツといえば、ここに入園したとき、付添人に連れられて園内の売店に行った。そこでこの小型のバケツを買わされたのである。つまり、普通の洗面器よりも、手の不自由な者にとっては、このバケツの方が使いやすいのである。1週間ほどして、寮にはいってみると、だれもかれも、このバケツの洗面器を使用していた。しかも、本物の洗面器には、残った麦飯がいれてあるのをみて驚いたものである。
 隣りでは朝のお茶がはじまったらしい。食器のふれあう音がする。6時になった。妻はその音に覚めたらしい。寝返りをうった。やがて六時半になり、園内ラジオが鳴りはじめた。妻は寝床をあげ、身支度をすると、部屋つづきの台所で、朝の仕度をはじめた。電気ポットにスイッチを入れ、そして、あのバケツの洗面器でざぶざぶ顔を洗っている。それが終ると、私の布団をはぎにかかる。わたしは否応なしに半身を起こし、布団をあげる手伝いをする。そして、昨夜ぬぎ捨てた衣類を着せてもらい、洗面に出ていく。うがいを2、3べん繰り返し、妻がしぼっておいてくれたタオルで顔を拭く。その間に妻は座敷を掃き、ホーム炬燵を据え、食卓を置き、お茶の仕度を整える。麦茶のかおりがたつ。わたしは妻の入れてくれた熱い茶をすすり、パンをかじる、そのうちに食事運搬車がやってくる。1棟5部屋を、突通しの廊下でつないだその廊下に、共同の食卓が出され、そこで食事などの一切のものが分けられる。テレビを妻は見、わたしは聴きながら食事がおわる。妻はすぐ後片付けにとりかかる。炬燵に入りながら、わたしの目であり手足であるこの妻が、もし死んでしまったら……、ふと、そうした予感がわたしの胸を走り、その思いがけない予感におののいた、食器を洗った妻は、煙草を1ぷくつけ、内科診察のカルテを出しにそそくさと出ていった。
 やがて9時半も近くなり、治療棟へ出かけねばならなくなった。私は一足先に玄関を出て待った。手にした杖が重い。3年前はじめてこの杖を手にしたとき、わたしの胸をつきあげた悔しさ、怒り、恥ずかしさ、後悔、あるいは寂しさ悲しさ、そうした激情はもう影をひそめて、抵抗感をうしなっていた。ちょうどバケツで洗面した当時の不快感が、時のたつにしたがって消えうせたばかりでなく、このごろは洗面器といえばすぐにバケツを連想し、それがあたりまえのようになっている自分自身に気づいて、愕然とした。あれほどに、そのときの気持をいつまでも、なまなましく持ちつづけようと思っていたはずなのに……、それが、あまりにもきれいにうしなわれていることを知った。
 やがて、妻が出てきたので、その肩に手をかけた。めっきり衰えてしまったその肩は、ごつごつしている。そうしたことも、わたしが不自由なために、苦労をかけているせいではないかと思った。空はいまにも泣き出しそうに曇っているらしい。空気が湿気をふくんでいた。
 外来治療棟は第1と第2に分れていて、第1には内科、眼科、第1、第2外科、それに赤外線罨法室、待合室があり、第2には歯科、耳鼻咽喉科、化学療法科とレントゲン室がある。この2つの建物をつなぐ廊下には、電気療法室と機能訓練室とかあり、一方には薬局がある。だが、産婦人科はどこにもない。147組の既婚者がいながら、これは、生れいづる者のいないというしるしでもあろうか……。わたしは耳鼻咽喉科の前で妻と別れた。
 重いドアを押すと、人びとのざわめきが顔をうつ。ベンチには4、5人が順番を待っているらしかった。前方の隅で吸入をやっていて、蒸気のふき出る音がシューシューとしていた。その横では鼻洗をしているものがいて、奇妙な音をたてている。わたしはポケットに手をつっこんで順番のくるのを待っていると、診察をしながら、冗談半分にいっている先生の声がした。
 「開業していて、こんなに患者がきてくれるなら、うんと儲かるんじゃがのう……」
 「そうですなあ……」
 と、だれかがいった。あとは無言で、てきぱきと治療をつづけている気配だった。やっと順番がくる。廻転椅子に腰をかけると、半円形に廻されて、いきなり右の耳をつかまれた。手早くピンセットで、詰めてあったガーゼがとり除かれた。まるで夜が明けたような感じがした。綿棒にオキシフルをしませて、外耳道の奥に挿入された。わたしは思わず声をあげた。
 「先生やけに泡がたちますなあ……」
 「そりゃあ君、中耳がわるいからじゃよ。あんたには薬を投与することもできんしな、辛抱づよくやらにゃならんので、それだけに厄介なんじゃ」
 右の耳がおわると、こんどは左の耳である。こちらはほとんどよくなっているらしい。「はい、よろしい」と背中をポンと叩かれて椅子からおりる。すぐ准看の実習生がきて、出ロヘ連れていこうとするのに、鼻洗をしてくれるように依頼する。鼻洗は頭の高さにかかげられた瓶から、ゴム管を伝わってなまあたたかく塩っぽい液が出て、その口を鼻孔にあてて鼻の奥を洗うのである。あまり気持のいいものではない。人間の顔にはなぜ一対ずつの器官がついているのだろう……などと考えながら、押されるように耳鼻科を出た。
 曲り角の多い廊下を通って眼科へくると、今日は診察日。主任看護婦と実習に出ている准看生が診察室へいっているので、処置室では1人の看護婦が洗眼をしたり、目薬を入れたり、投薬の指示をしているので忙しい。やっとベンチの端があいたので腰をかけた。 隣室から、先生と患者の受け答えをしている声が筒抜けに聞こえてくる。
 「眼圧が高いからねえ、いまのうちにおさえておかなければ、よい方の目にうつるので、もう1錠ふやしておきますよ」
 「先生、あのお薬をいただくと、おしっこに7、8回も通うているんですが……」
 わたしはその薬がダイアモックスではないかと思った。やっと順番がきた。看護婦は椅子を叩いて、その在処を知らしてくれた。受けとって頬にあてる。冷たい。瞼を開きホーサン水で洗い、あとを拭き綿でふいてもらうと、また元の椅子にもどる。そこで点眼される。あとは降圧剤を2回ずつ点眼すればよいのであるが、それが簡単にはおわらない。あとからあとから人が詰めかけるからである。診察中なのでみんなはひそひそ声で話している。時候の挨拶やら、病気のことや体の調子についてしゃべりあったり、隣り近所の噂話などやっている。外来治療棟は、南地区と北地区からやってきた人びとの社交の場所である だから賑やかなことだ。ときには「診察中ですから静かにして下さい」などと注意されることもある。やっと処置がおわり、しわくちゃになった登山帽をかむって、杖を持ち直して廊下に出た。
 耳鼻科の戸口で妻と別れてから、かなりの時間がたっているので、もう内科診察をおわり、注射室にきているのではないか、と思い覗くと、看護婦が、
 「まだ奥さんはきていらっしゃいませんよ、ここへはいって待っていたら……」
 と言った。わたしは「ありがとう」といい、内科へいってみることにした。内科はまん中をガラスの壁で仕切り、待合室と診察室とに分れている。1歩はいって耳を潜ましたが、診察はすんでしまったのか、ひっそりしている。しかし先生はいるらしく、ひそひそと話し声がしていた。待合室には人がいて話している。その声でひとりは磯野とわかる。もうひとりは田頭であり、2人共盲人である。田頭は薬をもらいにきたらしく、磯野は破傷風の予防注射を受けにきていることがわかった。1月の中旬ごろ、破傷風の患者が出て大騒ぎになり、そのあげく、やっと予防ワクチンの注射が実施されるようになった。しかし、入園者600人に対して、たった16人分のワクチンしかなく、結局、早く申し込んだ者からになったわけである。その中に彼が加わっていたのであろう。突然、診察室から西川先生が出てきて、磯野にいった。
 「君、遅いじゃないか。ぼくは3べんもきたんだよ」
 「ぼくは4回もきたんです」
 とおおむ返しに磯野はいい返した。まるで子供同志がりきみあっているようなやりとりに、ふと笑い声をたてそうになり、わたしは慌ててその場をはなれた。11時が近いのか各科にあふれていた人びとのざわめきは下火になっている。妻は診察がすんで、帰ってしまったにちがいない。そうすると注射の許可がなかったことになるが……。廊下は冷たい風が吹きぬけていた。
 ふたたび、道の悪い工事現場を通りぬけて帰ってきた。障子をあけ、いきなり声をかけてみた。部屋はしーんと静まりかえって、妻のいる様子はなかった。わたしは、わたしの巣になっている坦燧に足を入れ、冷えた体をあたためた。そしてラジオもかけず、暗いなかにうずくまっていた。時計が11時を告げた。ふと小刻みに歩いてくる足音がして、妻が帰ってきたらしい。せきこんであがってきた妻は、障子をあけると、
 「あんた、今日血圧を計ってもらったら、高い方が185、低い方が115もあったのよ」
 わたしは、脳天に一撃をくらったようで、返事ができなかった。実は、わたしも高血圧のために5年ほど水っぽい減塩食を食べつづけている その上に妻が同じ高血圧になってしまったのである。
 妻は気がゆるんだのか、崩れるように膝をついて、診察中のことを話しはじめた。担当医の佐藤先生にとっては、まさか、このやせている妻の血圧が高いなどとは思ってもいなかったらしく、びっくりされて、再三計り直したらしい。そこへ血圧専門の西川先生がこられたので、結局2人がかりで診られたとか。「君がね、こんなに血圧が高いとは……」と顔をながめられたそうである。わたしは、その場の様子を思いうかべながら聞いていた。
 「あんたに本を読んであげにゃならんと、いつも思っているんやけど、ものの1頁も読むと頭がつかれてきて、文字がわかっていながら、それがどうしても言葉になってこないのよ」
 と言って、妻は思い直したように刻み煙草を喫いはじめた。そのにおいの中でわたしは、
  煙草はやめた方がいいなあー。できなければ、喫う量を減らすといいんだが……」
 日頃から、煙草をやめるくらいなら死んだほうがましよ、と言っている妻の気心をおしはかりながら、つぶやくようにいった。妻はだまって、キセルのホクを叩き落すと、昼飯の仕度をするために台所へたった。
 「もう何もしなくてもいいから、休めよ」
 「でもねえ、暖かいものがいいでしょうから……」
と、ものを刻みはじめた。
 午後1時から盲人会の集会があるというので、そうそうに飯をかきこむと出かけた。外来治療棟までは毎日いき馴れているので、たやすくいきつくことができたが、そこから先はあまりいったことがなく不安であった。だれかいく人はいないかとしばらく佇んでいたが、そうした気配はしない。探りを頼りながら、ものの20メートルほどきたとき、前方から自動車が走ってきた。わたしは立ち止って車の通りすぎるのを待った。すると背後から不意に、つきあたってきたものがある。「おっ!!」「おっ!!」同時に声をあげた。その声で、会長の北島であることを知った。
 「君はいき馴れているから先へいってくれ」
 「そうしょうか―」
 彼は馴れた足どりで遠ざかっていった。わたしがやっと盲人会館へたどりついとときには、彼は会長としての仕事をてきぱきと果たしていた。
 広間には新旧の役員20名ほどが集まっていた。今日は新旧役員が交代するための事務引継ぎになっていた。はじめに前会長の挨拶があり、新会長から前期役員の労をねぎらう言葉がおくられ、拍手する中で前期の役員たちはたち去っていった。一休みしたあと、会長から、今期に引継いだ28項目の事項について、こまごまと説明がなされ、それだけでも今期いっばいの仕事があるように思われた。それがおわってひとしきり雑談しているうちに雨が降りだした。時間はもう3時に近かった。わたしたちはたちあがって、ぞろぞろと玄関につめかけた。
 「世話人さん、目を貸してちょうだい」
 かん高い声がした。すると。
 「ぼくの目玉を出して、貸してやってもいいんだが……」
 と島田の声がした。彼は義眼をはめていたからである。世話係がきて靴を履かせたり、杖を持たせたりして、ひとしきり混雑した。わたしがやっと靴をはいて玄関を出たときにはもう誰もいず、帽子にふりかかる雨の音をきいた。日ごろの雨の音よりは幾分固く、しばしば頬をうつ冷たさに、それが氷雨であることを知った。
 わたしは道のほとりを探りながら帰りはじめた。あたりの建物や、松の樹々にふる氷雨の音が荒々しくなった。わたしは足を早めた。大島会館のまえをよこぎり、盲導索をつたわりながら本通りに出た。そこで道のほとりを探るつもりであったが、どうしたはずみか迷ってしまった。わたしの足もとから道が消えた。そこらを探ってみたが道らしい手ごたえはなく、泥田のような感じであった。2、3歩いっては探っているうちに、方向が東であるのか、それとも西であるのか、さっぱりわからなくなってしまった。氷雨は騒然とふりしきっている。わたしのまえには、限りない暗闇がひろがり心は焦った。どこかで盲導鈴が鳴っているにちがいない。耳をそばだてると、水雨にまぎれて四方八方でなっているようにきこえ、右へいったり、左へいったり、ますます迷ってしまった。
 「おーい、こっちだ、こっちだ」
 と、呼びかけながら、ぬかるみの中をぺちゃぺちゃやってきて、腕をつかんで道に連れもどしてくれた人がある。多田だった。彼の説明によると、わたしの迷っていた場所は、以前テニスコートのあったところで、三方を病棟、重不自由者センター、図書館に囲まれた小さな広場だったのだ。しかも、道までは7、8メートルしかなかったとか、われながら、そのようなところで迷っていたことがこっけいであり、それがかえってやりきれなかった。外来治療棟まできて多田と別れたわたしは、彼のたち去っていく方へ幾度も礼をいった。
 やっと寮の玄関にたどりついた。帽子も服もじっとり濡れていた。部屋はひっそりしていた。障子をあけてはいり、「おーい」と声をかけてみた。すると、わたしの巣のあたりから声がして、眠っていたらしい妻は目覚めた。
 「あんた、雨がふっているの。迎えにもいかなくて……」
 「いいよ、大したことはなかったのだから……」
 わたしはすり足で妻の横を通り、うがいをするため洗面所にしゃがんだ.土手の枯草、その向うの林には簫条と氷雨がふりしきっていた。

  




「わたしはここに生きた」大島青松園盲人会発行
昭和59年1月20日 発行


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