わたしはここに生きた   <盲人会五十年史> 国立療養所大島青松園盲人会五十年史

                   本書をハンセン病盲人に愛と理解を寄せられた多くの人々に捧げる

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第2部 「灯台」の群像

 第4章 生きる

 46 愛に支えられて          故 児 島 豊 乃

       (1)

 私は昭和37年11月の末、療養所に来ました。私は青松園にはいることを近所の人たちに知られたくないので、夜の明けないうちに船で向う岸に渡りましたが、その日は北風が強く、波が高く荒れていました。船を人目につかない所へ着けてもらい、道路の片隅で小さくなって、迎えの車が来てくれるのを待っておりました。ところが、誰も知らぬと思っていたのに、80歳になる伯母さんが孫に連れられて、20分ほどもかかる道のりをわざわざ来てくれました。伯母さんは来るなり、私の手を握って、
 「まあ、可哀そうに……」
 と言って泣き、私も一緒に泣きました。やがて迎えの車が来たので、伯母さんと別れを告げて車に乗りました。私は、60年余りも住み馴れた家や故郷とも、これでお別れかと思うと、悲しさで胸がいっぱいになりましたが、そんな気持をよそに車は走り続けておりました。
 私は、入園する年の5月、重い病気をして長らく食事も喉を通らず、体が衰弱して、にわか盲になっていたのです。附き添ってくれた予防課の井上さんが、途中で、
 「ばあちゃん、いま、徳島の街を通っているよ」
 と言って教えてくれましたが、それどころではありませんでした。車は午後1時に高松の出張所に着き、しばらく休んでいると大島丸が来ました。そして運転手の竹内さんが、私を背負って船に乗せてくれました。やがて島に着きますと、私を待っていたのは担架で、どこへ連れて行かれるのかと不安でした。
 部屋に着いて、寝間着に着替えさせてくれ、べッドに私を寝かせてから、その人たちは出て行かれました。目が見えないのに1人でおるのかと思っていると、そばから2、3人の人が声をかけてくれ、私も、よろしく頼みます、と挨拶をしました。それではじめて、ここは病室だということが分り、ほっとしましたが、その夜は少しも眠れませんでした。
 あくる朝は8時に食事を運んで来てくれましたが、私は手が悪くて箸が持てず、これまで家の者に食べさせてもらっていたので、食器の中に口を入れて食べようとしても、ご飯を舌で押さえるような形になり、口ににあまりはいりませんてした。すると、隣りベッドの人が、
 「まア可哀そうに! この人、ご飯があまり口へはまりよらんのオ」
 と言って、自分のフォークで食べ易いように、ご飯を浮き上がらせてくれ、私は喜んで食べておりますと、また舌でかたく押さえてしまうのです。そんな日が2、3日続いておりましたところ、病室を見まわりに来てくれた厚生部の人に、隣りの人が、
 「この人、可哀そうに、ご飯をよう食べよらん」
 と言って、話してくれました。厚生部の人は、あくる日、フォークに柄を付けて持って来てくれました。それからは掌に差して食べるけいこをしたので、やっとご飯が食べられるようになりました。そして、厚生部の人は、
 「おれも徳島から来ているので徳島といえば懐しい。用事あったら、厚生部へ言って来なさい」
 と優しく言ってくれたり、また、隣りべッドの人も姉妹のように優しくして頂きました。 初めのうちは、便所に行くのにも人の手を借りたり、つまずいて転んだり、よその部屋に迷いこんだりしながら、ようやく1人で行けるようになって、半年余り病室で過ごしました。そのうち、私のはいる寮が決まり、一緒に親しくしてくれていた人たちと別れを惜しんで、重不自由寮の28寮に入れてもらいました。
 初めて寮にはいったその日、寮の人たちは寄合いがあるとかで、部屋には誰もいませんでした。1人部屋で待っていると婦長さんが来られ、お便所を教えてくれたり、いろいろなことを教えてくれました。婦長さんは、ここは大きな松が沢山あったり、山にはツツジが咲いてよい所ですよ、と話してくれました。それから、半時間ほどしてまた人が来られたので、私が、よろしくお願いします、と挨拶をすると、それは先はどの婦長さんでした。そのうちに部屋の人が帰って来られ、私の部屋にはおばさんが2人おりまして、優しく迎えてくれました。隣りの部屋にもよく気の付くおねえさんがいて、いたわってくれました。
 月日のたつのは旱いもので、入園して10年近くなりました。私はお風呂に行ったり、センターの処置室へ行ったりするのが何よりの楽しみです。また看護肋手さんや寮のみなさんにもお世話になっていますが、不自由な私には人様の愛に支えられなければ生活できないことをしみじみ思っております。    

       (2)

 私が入園した頃、ある人から、もう10年余りになります、と聞かされて、気が遠くなるような思いがしました。それなのに、私も大島で早や10年目の春を迎えました。
 その間に園内の様子もだいぶ変ったようです。私が盲人会へ入会させてもらった頃には、会員も90名近くおられたのに、亡くなられた方などもあって、今では70名余りに減り、会の催しなどに集って来る人も少なくなったとのことです。私も3、4年前までは、総会や親睦会に時析出席させてもらっておりましたが、すっかり体も弱り、お風呂に行くのと、廊下続きにあるセンターの処置室へ通うのが精いっぱいで、部屋から外へ出るのがおっくうになってしまいました。
 部屋の外に出ることの少なくなった私にとって、教養文化費でいただいたトランジスターラジオは、本当によい慰めになっております。いただいた当時私は、ラジオをもらったものの、手が悪いので使えるかしらんと案じましたが、ダイヤルやスイッチに金具を取付け使い易くしてもらいましたので、今では身近において聴いております。また最近は、盲人会にもテープ文庫が設けられて、テープレコーダーを持っている人は大変楽しんでいると聞いております。払もテープレコーダーを持つことができ、ラジオでは聴くことのできない小説などが聴けるようになったら、もっと楽しいことだろうと期待に胸をふくらませております。
 月に1、2度、盲人会の世話係の方がまわって来て、「会の方へ何か要望はありませんか」と、声をかけて下さったり、治療陳で若い会員の方から、「おばあちゃん、どうかね、元気かい」と言って下さったりすると、とてもうれしく、会の方々との結びつきをつよく感じさせられます。

  




「わたしはここに生きた」大島青松園盲人会発行
昭和59年1月20日 発行


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