わたしはここに生きた   <盲人会五十年史> 国立療養所大島青松園盲人会五十年史

                   本書をハンセン病盲人に愛と理解を寄せられた多くの人々に捧げる

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第2部 「灯台」の群像

 第4章 生きる

 48 病棟にて          故 槙 塚 と り

  気づかされたしあわせ

 5、6年前のことでした。あけはなされた病棟の廊下をトイレに通っておりますと、隣りの山本さんに呼びとめられました。何かと思って立ち止まると、
 「あなたは自分でトイレに通えてよろしいなァ」
 と、さも羨ましそうに言われました。靴をはかせてもらい、やっとトイレに行っていることが、それほど羨ましく思われるのだろうか?私は考えさせられました。
 山本さんはトイレに行かれる途中で倒れてから全然歩けなくなっていたのでした。私は目が見えないけれど、トイレヘ1人で歩いて行けるということは本当にしあわせだ、と初めて気づかされました。その山本さんもとうとう昨年亡くなられました。私もまた神経痛で手もなえ、トイレに行っても着物をささえるのがやっとですが、だけど、人の手をわずらわさずに過ごせた日はうれしく思います。まだまだこの先どのように不自由になってゆくか分りませんが、山本さんの言われたことを思い、ささやかな喜びを見出して、1日1日をすごしてゆきたいと思っております。

  除夜の鐘

 私は、病棟で長期入室者として、一切の面倒をみてもらっております。同じ盲人といっても、私の場合は手足はおろか口の感覚さえ失って、寒い時は温かいものが欲しいのですが、他の人と同じような熱さのものを口にしますと、火傷をしてしまいます。看護助手さんがみかねて、私の食事を夏には扇風機でさまし、丁度よい加減にして運んでくれています。自分でも工夫して、やわらかい副食をおかゆとまぜ合わせて、持って来てもらうことにしました。
 「そんなにして食べるとおいしくないでしょう」
 と言われますが、私は笑って、
 「おなかにはいると一緒ですから……」
 と答えています。
 病棟へ実習に出ていた看護学院の生徒さんが冬休みで皆家に帰り、病棟は少数の看護婦さんと看護助手さんだけになりました。3日目ごとの夜勤にも一生懸命尽して下さり、 やがて大晦日になりました。その日夜勤は勝田さんと星野さんの2人でした。6時の食間薬を持って来られた勝田さんは、
 「私たちは朝まで寝ないのですから、なんでも用事があれば言って下さい」
 と言ってくれました。
 「それでは私も起きていて、看護婦さんと一緒に除夜の鐘を聴かせてもらおうかね」
 と言って、かなり遅くまでがんばっておりましたが、早寝ぐせの私はいつの間にかぐっすり眠りこんでいました。すると星野さんが来て、
 「槙塚さん、槙塚さん、目をさまして除夜の鐘を聴きましよう。ラジオをかけてあげるから……」
 と、早速スイッチを入れてくれました。放送は北海道からでした。
 「参詣人は寒さの中をぞくぞくとつめかけ、境内はいっぱいの人です。山のように積まれた護摩札、人々は家内安全を祈り、この年の福を受けて帰って行きます。そのざわめきの中に除夜の鐘は鳴りひびいています」
 アナウンサーの声と共に鐘の音は、九州・宮崎に移ってゆきました。寺々の鐘のひびきを聴いているうちに、四国に渡り、高知は31番霊場五台山竹林寺の鐘の音にかわりました。それを子守り歌のように聴いているうちに、眠ってしまったのか、ふと気がつくとラジオのスイッチは切ってくれていました。病室には大きないびき小さないびきが聞こえ、私も眠ったらこんなのだろう、とおかしくなりました。廊下には足音1つなく、いったい何時ごろなのか見当がつきません。
 子供の頃母に連れられ、氏神様へ初詣でをした時のこと、母の顔やきょうだいの顔が次々に浮かんでは消え、浮かんでは消えしているうちに、柱時計が2時をうちました。あァ良かった。ラジオも聴かせてもらい、睡眠もとれ、本当にいい除夜でした。これもみな、優しい看護婦さんの心遣いによるものと、日頃お世話になっている方々の無事を祈って、感謝のうちに元日の朝を迎えたのでした。

  




「わたしはここに生きた」大島青松園盲人会発行
昭和59年1月20日 発行


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