わたしはここに生きた   <盲人会五十年史> 国立療養所大島青松園盲人会五十年史

                   本書をハンセン病盲人に愛と理解を寄せられた多くの人々に捧げる

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第2部 「灯台」の群像

 第5章 闇からの開放

 60 藤の寺          島 田  茂

 四国霊場第11番札所藤井寺の薬師如来像が完成されたので、福留住職から私たち盲人会員を招待して下さったのは、昭和五55年5月14日であった。藤井寺と盲人会とのつながりは、奈良真和会の皆様が日頃藤井寺と信仰の面で格別親しくされていたらしく、昨年この寺のご本尊である薬師如来像が重要文化財に指定され、人目につかない奥の院に安置されてしまったので、その身代り像として新しく薬師如来像を建立されることになり、その浄財集めに真和会が協力し、当盲人会にも呼びかけがあったのが縁である。旱速会では入園者全体を対象にして、その趣旨の放送を行なったところ、全員はもとより入園者を含めて120数名の方から寄附金が寄せられたのであった。それを真和会会長の小林芳信先生に、寄附金に同封して氏名と金額の名簿を添えて送り、藤井寺の福留住職にとどけられたのであった。
 それがきっかけで、昨年の7月に真和合の皆様と同行されて福留住職も来圈され、納骨堂に参詣された。その道すがら伺うところによると、青松園には昭和32、3年頃、盲人会館建設の資金あつめのため、2、3度訪問したことがあるとのことだった。この不思議な偶然を盲人会館に待っていた会員に話すと、遠い記億をよびさましうなずき合ったものである。住職はその当時花園大学の学生で尺八を習っていたので、他の学生と共に琴や尺八の演奏会を行ない、集まった資金を会館建設費に協力させていただいたとのことであった。膝をまじえての懇談の席上でもこのことが話題になり、急に親近感が深まった。昭和34年に盲人会館が新築されたので、20数年前すでに盲人会と福留住職との目に見えない縁はつながれていたのである。そのときの恩返しが今回の薬師如来像建立に、いささかなりと報いることができたのは、せめてもの慰めとなった。このことを知った真和会の皆様は狐につままれたような驚きぶりであった。福留住職を迎え、20数年間の空白を埋めて、懇談会は和やかな談笑のうちに過ぎたのであった。そして昨年の10月に盲人会のバスによるレクリェーションで藤井寺に参詣し、おはらいや説教を福留住職からしていただき、手厚い茶菓の接待を受けたのであった。
 さて招待された5月14日は、前日までの雨がうそのように上り、さわやかな五月晴に恵まれて「やしま号」が藤井寺の駐車場に着いたのは、午前10時前であった。なだらかな坂道をたどり、小川に架けられた石橋を渡って、まず名物の藤の下に立った。この藤は弘法大師が42歳のときのお手植ときくから、はるかに千年を越えているわけだ。淡いピンクを帯びた藤の花房は5、60センチ以上もあるという。そっと唇にふれてみると盛りを少し過ぎたのか、花びらがほろほろと散った。私は周囲に花房をめぐらした巨大な縁の傘を想像して感歎の息をのんだ。昨年の秋詣ったときに、ぜひ花の季節にお詣りしてみたいものと思ったが、その願望が叶えられ、殊のほか心洗われる思いだった。そんなところへ私たちを迎えるため、泊りがけで来ておられた真和会の小林先生の奥様や、引田さんたちがかけ寄ってこられ
 「いらっしゃい、いらっしゃい、ようこそ、こんなに早く着くとは思っていませんでしたので、出迎えもせずご免なさいね、みなさん酔われませんでしたか」
 と手をとって下さる。その足で本堂の方へと導かれるが、昨年案内されたお寺なのでスムーズに靴をぬぎ、本堂脇の入口から新しく安置された薬師如来像の前に正座する。11名の真和会の皆様と並んで坐り、福留住職の読経の声に耳を傾けた。お経の中に青松園の物故者の冥福も祈って下さり、りんりんと透る若い声は堂内の静寂をひときわ深ませる。読経が終ると福留住職は私たちの方に向って坐り直し、数珠を両手のひらで撫でながら、穏やかな口調でお礼と歓迎の言葉を述べられた。それにこたえて会長の北島さんが鄭重に、招待をしていただいたお礼の挨拶をした。その後住職は
 「この新しくできた薬師如来像は、去る3月9日に開眼供養が盛大に行なわわました。そのときは激しい風雨のなかを真和会の皆様も大勢かけつけて下さいました。皆様の前に祀られている仏像は、楠の木の一本彫りで、正面のお薬師様は、台座を入れると高さは2メートル余りの坐像です。左右に日光菩薩、月光菩薩を配し、一ばん下の段には小さな仏像が両側に5百体づつ千体祀られております。ご本尊は殆ど彩色されておらず、お頭とお顔の1部にうすい色づけがされています。その外は木肌を生かして衣のふさどりなどに、金箔がほどこされている程度の質素な作りになっています。材料の楠の木は日本では手に入れることができず、外国から輸入されたもので、虫よけの役を果たしています。吊灯籠はちょうどお顔を照らし、うす暗い堂内にお姿を浮き上らせております。また30畳程の天井一ぱいに描かれている龍の絵は水をよんで、この仏像や、お寺を火災から守って下さっています。皆様からお寄せいただいたありがたい浄財によって、こんな立派な仏様が作られたことは、本当にありがたいことです」
 と目に見えるように説明された。
 私たちが住職の話を聞くているうしろでは、折からのお遍路さんがつぎつぎに参詣にみえ、賽銭箱にお賽銭を入れる音や、鈴を振りながら般若心経をとなえる声が聞こえていた。寺をつつむ新緑の山からは春蝉の声や、鶯の声がしきりに聞こえ、匂うような霊気を漂わせていた。一行は靴をはき、本堂をあとにして庫裡の方へと案内していただく、そこにはすでに食台が準備されており、座布団に坐って一息入れているところへ、真和会の皆様が奈良からはるばる持参されたという鮭の押寿司が一人前ずつ皿に盛って運ばれ、準備していたらしい味噌汁も並べられた。真和合の皆様にまじって付添いの永井さんや、看護助手の泉さん、安座間さんたちもかいがいしく食事の準備に当って下さった。やがて福留住職をまじえての賑やかな昼食が始まり、私は隣の磯野君に鮭の押寿司を手のひらにのせてもらい、いつになくたくさん食べた。
 「これは旨い、こんな押寿司は初めてじゃ、本当にうまい、たまるかのう」
 と高笑いするのは大食漢で知られている矢野孝吉さんだ。とても70歳とは思われないほど元気な矢野さんは、遠い過去を振り返るかのように住職に向って話しかけた。
 「今日は本当によかった。天気もいいし、こんな心のこもったご馳走をいただいてありがとうございます。わしがこの寺にお詣りさせてもらったのは53年ぶりですよ。忘れもしませんがあのときはまだ16、7で、空き腹をかかえて泣きの涙でお詣りしたもんです。今日こうしてお詣りできたのは本当に夢のようです」
 と今日の幸せをかみしめるように話した。感動して話す矢野さんの言葉に耳を傾けていた住職は
 「ああそうですか。私がまだ生れていなかった頃の話しですね。ずい分若い頃にお四国巡りをされたようですが、もうその頃には発病されていたんですか、苦労されたんですね。あなたによく似たお年寄りの方が、毎年1度は詣られるんですよ」
 と穏やかなロ調で話される膝の上では、数珠の音がしきりにしていた。この福留住職は、花園大学の山田無文ご老師の門下生であるだけに、ハンセン病の理解もふかく、啓蒙にも励まれておられるようだ。
 「住職さん、矢野さんが昨年真言宗のバス団参の方にことづけたという紫陽花はどこに植えられたんですか。矢野さんは青松園の納骨堂や、島の八十八カ所にもたくさん紫陽花を植えて育てているんですよ。それにいろいろな苗木を植え、自費で肥しを買って島の自然を大切にされているんですよ。いまどき珍しい奇特な方でね、若い者顔負けの元気さですよ」
 と言う私のそばから磯野君が、
 「あのね、昨年ここの薬師如来像の寄附金を進んで1ばん先に寄せられたのも矢野さんでね」
 と言った。じっと聞いていた住職は
 「あの紫陽花は奥の院の脇に植えて大きくなっていますよ、ここの土地に合っているのですかね、矢野さんありがとうございました。昨年お詣りした青松圈の納骨堂のあの草花もあなたが植えられたんですか。きれいに掃除もされていましたね。どうもご苦労さん、新しくできた仏様をお詣りできて本当によかったですね」
 と言われるのを、矢野さんは照れくさそうに聞いているようだった。真和会手作りの押寿司に舌づつみをうち、住職の話に耳を傾け、1人で2人半分をご馳走になったという矢野さんの話題に、真和会の皆様も心から喜んでおられるようだった。打ちとけた団欒の後片づけをすませてから、廊下つづきの宿泊所へと手をとられる。開け放たれた窓からはさわやかな5月の風が吹きこみ、汗ばんだ頬を心地よく撫でる。真正面に見える藤棚の模様や、夏蜜柑などが植わっている風景を、隣に坐っている永井さんが描写して聞かせてくれた。見事に咲いたピンクの藤棚を伊藤さんはカメラに収めているようだ。そんなところヘレモンティや、コーヒーが真和会の皆様の手によって運ばれてきたので、渇いた喉をうるおす。信仰家の矢野さんは福留住職に納経してもらい、
  色も香も無比中道の藤井寺真如の波のたたぬ日もなし
 この寺のご詠歌を直筆で半紙に書いてもらい、如何にも満足しているようだ。北島さんは真和会の皆様に囲まれて、感謝の喜びにひたっている様子だ。そんなところへ参詣の人々が撞くのか梵鐘の音が余韻を残して新緑の白然にとけこみ、私たちの心を洗い清めてくれるのも印象的だった。福留住職も私たちの話題に入り、佳境に入ったところで、住職から参加者全員に記念品の手拭と鈴が配られた。慌しく時間は流れ、出発予定の午後1時が迫っていることに気づき、私は日程の吉野川遊園地に遊ぶよりも、この静かな寺でゆっくりとくつろぎ、真和会の方々と膝をまじえて過ごす方がよいと思ったが、やはり予定は変更できず、藤井寺に心を残して出発することになった。それを知った小林先生の奥様は、薬師如来建立基金を寄せられた皆さんに差し上げて欲しいと言って、段ボール箱に入れたたくさんのタオルを手渡して下さる。重ねがさねのご厚意に一同は恐縮した。会長の北島さんは心から感動したようで、お別れの挨拶にも実感のほどがうかがわれた。
 靴をはかせてもらい白杖を手にして、私たちは夏の日差しを思わせる境内に出た。そして藤棚をバックに福留住職をかこみ、真和会の皆様もまじえて全員で記念写真をとってもらう。私は妖艶なロマンを匂わせて咲いているであろう藤棚を脳裡に描いてたたずんだ。数本にわかれた蔓がからみ合い、大人のひと抱えもあるというこの藤は、千古の風雪に耐え、人の世の葛藤と盛衰を眺め、幾多の祈りの姿を見守り、現在に生きつづけている生命力の偉大さに私は畏敬の念を覚え、歴史の重さを感じた。藤井寺の名にふさわしい藤の寺に安置された新しい身代りの薬師如来像に、つきない名残りを惜しみながら、私たちはせせらぎの音を耳にして石段を降った。乗りこんだ「やしま号」の車窓のすぐそばまで、福留住職や、真和会の皆様は来られ、口々に別れの言葉を交した。そして真和会の皆様が定期的に来園されるのが、来月6日15日に予定されているので、そのときの再会を約して、車は吉野川遊園地へと動き出した。

  




「わたしはここに生きた」大島青松園盲人会発行
昭和59年1月20日 発行


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