閉ざされた島の昭和史   国立療養所大島青松園 入園者自治会五十年史

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それぞれの歩み

 各種団体の変遷と現況  

〈今までに解散した団体〉

 慰安娯楽の少なかった開所当時から昭和の初めにかけて、自然発生的に同じ思想、同じ趣味を持つ者が集まり、文化、芸能、娯楽、趣味、スポーツ等の活動をはじめた。宗教や文芸の団体は早くから結成されていた。昭和6年に自治会ができてから、施設に団体活動の援助を申請したり、自治会が助成したりして、その育成に力をいれるようになった。団体の活動は人々の心を豊かにし、単調な療養生活を明るくし、活気あるものにした。しかしせっかく燃えかけてきた火も、戦争と共に下火となり、毎日が戦争の余波を受け、文化的活動もできない状況となった。
 そして終戦、生きていたことを良かったと思い、生活が落着いてくるにしたがい、人々は生気をとり戻し、長い冬のうっ積をはね返すように団体が生まれ、その人数も増加していった。25年から35年頃までの10年間がピークで、その後徐々に衰退していった。入園者の不自由度と高齢化の進行、夫婦寮などの個室化による個人生活の尊重、テレビその他の娯楽機関の普及などがその理由として考えられる。ヨコの生活の中で個の生活をより大切にする気風が強まったからであろうか。そして55年現在、その多くの団体が消滅してしまった。

 青年団

 創立は昭和6年3月8日、自治会と同じ。団長は当時の自治会執行委員長が兼任し、副団長以下幹事は団員の選挙で選出した。当初から自治会の一翼として発足している。団員は年令の制限をせず、軽症寮の男子の希望者によって構成、ほとんどの人が入団した。3月28日に総会をひらき「大島相愛青年団」と命名、9月から専任の団長を選んだ。その後8年8月から30才までの義務制に改めた。16年には連合奉仕団に組みこまれ、同団は24年に解散、再び25才までの青年団として独立、29年に解散した。園内の若者は、自治会創立のための改革運動をおこした時、その中核として活躍した。だから自治会と同じ日に発足した。
 自治会と表裏一体の組織として、あらゆる分野でめざましい活躍をし、自治会と共に充実し、発展していった。弁論大会も度々開き「自治会発展に関して各自よりの立場より論ず」と題して熱弁をふるった。文化団体というよりは奉仕団体として働いた。春秋の不自由寮の大掃除、盆踊り、運動会、餅つき等、大きい園内行事の主力となった。盲人の尉安会を催したり、盲人会の世話役として奉仕し、それは戦後解散するまで続いた。現在残っている北の山の相愛の道も、当時の青年団が開通したものである。
 戦後、連合奉仕団から独立してからは、奉仕団体というよりは文化団体として進歩的言動を強めた。28年の予防法斗争の時も自治会をバックアップし、文芸団体と共に、その中心的役割りを果たした。しかし、時代の流れの中で義務制が個人の自由意志を束縛する結果となり、個人と組織との矛盾が動機となって結成以来23年で解散した。

婦人会

玉藻婦人会として発足したのは昭和8年3月11日。構成は軽症寮の女子全員で義務制であった。主として奉仕作業にはげみ、青年団と同じ直を歩んだ。戦後年令制限を設け、40才から35才になり、さらに30才までとしたが、青年団と共に29年に解散した。奉仕の内容は、園内行事の手伝いのほか、不自由寮の障子張り替え、年2回の不自由寮の食器、膳箱洗い、爪切り、ほころび縫い等があった。その他、寿しの給食の時には、ごぽう削りや、野菜洗いなどもした。これらは少しずつ作業に切り替えられていったが、それまでは婦人会の奉仕に依存していた。青松園の婦入たちがよく働くのも、そうした美風を受け継いでいるからかもしれない。

 連合奉仕団

 昭和16年、当時の警防団を中心に、青年団、婦人会を一つの組織にまとめ、大島連合奉仕団と称した。戦時下の組織替えであった。一致団結し、青松園を守り、全入園者に奉仕することを目的とした。警防団は壮年部とし、青年部、婦入部の三部制になり、正副団長の他、各正副部長、幹事を置いた。奉仕の内容は、それぞれのものをひき継いだ。戦時下の自治会の手足となって働いた。現在の7寮から15寮までの崖下の横穴式防空壕も、団員が中心になって掘った。それは今も戦争の遺跡として残っている。夜警や防空演習もした。労力と入手が必要なことは何でもした。
 戦中戦後の動乱闘の、園内秩序、保安を維持する役割りも果たした。戦後すぐ解散しなかったのも、そういう点を重視した故かもしれない。しかし、民主主義の台頭、基本的人権の尊重等の思想が、奉仕団の土台をゆさぶり、24年に解散した。壮年部はそのまま消滅し、青年団と婦人会は再び独立して残った。

 劇 団

 「古い記録によると、劇団は明治43年秋、当時の会館(現木工場の所にあった)で板戸の上に畳を敷いて“石見重太郎”を上演したのを手初めに、大正4年“矯風会”を創立、大正8年“共楽団”と改名。当時の衣裳は新聞紙で作ったものを使用、劇なかばで衣裳が破れ素足が出るのもしばしば、その後古包布に絵具で書いた衣裳と、シュロの皮で作ったかつらで公演した」(あさの・しげる作「諸般事始」より)
 当時は電灯も無かった時代で、カーバイドランプの照明であった。いつも大人満員で、有志からの「花」も多く集まった。昭和に入ってからも春秋二回の公演はかかさず、昭和8年1月には新年公演として、喜劇「車夫の診察」、菊池寛の「父帰る」、歌舞伎「曽我物語中村之段」を上演している。同年秋「線路工夫の死」を上演予定していたが「思想的見地より役所より不許可になる」と記録にある。同11月には高松や庵治から名士数十名を招待、公演している。
 10年頃から高松の鈴池一郎氏の指導を受けるようになり、12年には同氏の斡旋で、ある劇団の解散時に、歌舞伎衣裳170点、かつら15点その他を購入して全盛を誇ったが、17年頃戦争がはげしくなって中断。戦後21年10月、連合奉仕団によって「演劇研究会」として再発足、のちに再び「共楽団」として独立。25年頃までは入園者の朝倉要三郎氏の指導により、歌舞伎、時代劇、現代劇を上演したが、26年頃から再び鈴池一郎氏の教えを受けるようになり歌舞伎の上演が多くなった。
 時には珍芸もあり、立ち回わりの時にかつらを落とし、あわてて前後反対にかぶったり、台詞がつまり頭をかいて観客を笑せた。療養所らしく台詞がつまることを「神経痛をおこした」と言った。
 後年には舞踊も盛んになり、団員も70名もいたが、34年に現大島会館での公演を最後に、37年に解散した。

楽 団

早くから、それぞれ個人の楽器で楽しんでいたが、昭和8年1日、らい予防協会から吹奏楽器一組が寄贈され、これが刺激となって同年5月19日「葵楽団」が誕生した。外島保養院や愛生園の交流団が来園したり、大島から訪問する時には、賑やかな楽団演奏で送迎をした。盆踊りや、運動会にも出演した。
 当時は自治会から少額の助成金が出ていて、それを貰いに行くのが遠慮で、大島の北から南へ、南から北へと勇ましく演奏行進し、そのあと助成金を貰いに行った、という話も残っている。当時の団長は土谷勉氏であった。
 戦後21年にメンバーも変り、「楽団シルバースター」として出発、24年には開所40周年記念として、中国、四国8県の共同募金によってピアノを購入した。公演も毎年のように催し、歌謡曲をうたう男女の歌手も続出して次第に盛況になった。当時、島の教師をしていた島中貞雄先生の熱心な指導によりレベルも向上した。瀬戸内三園の合同演奏会を開いたこともあった。しかし、病気によって手や唇が不自由になる者もあり、メンバーは4、5年で変っていった。そんなこともあって40年頃には解散してしまった。

 野球・ソフトボール

 昭和6年9月24日「青年団主催による野球大会を開く」と記録にある。7年6月には野球部員17名が初めて愛生園を訪問し「試合に敗けたが精神的には勝った」と報告したという話が残っている。同年7月には外島保養院の野球団が来園、13対12で大島が惜敗。娯楽の少なかった当時、野球は熱狂的な人気となり、8年3月には応援団まで結成している。8年4月1日の開所記念日には職員と初めて対戦、9対12で入園者チームが勝ち、同年4月7日には愛生園チームが来園、8対7でまた敗けている。
 県内太田村の八千代クラブが慰問試合に来園したのが8年5月で、それ以来外部のチームが度々来園している。当時のグランドは現在の24寮から25寮の所にあり、外野は松林でフライが松の枝に当ると「松の木ヒット」になった。
 戦後の第1回大会は23年4月で、再び野球が盛んになり、職員との対戦や、瀬戸内三園との交流親善試合も長く続いた。しかし健康でなければできないスポーツで、次第に9名の選手をそろえるのも困難となり、34年の開所50周年記念の瀬戸内三園野球大会を開催してから、数年後に解散した。
 ソフトボール・クラブは野球が下火になった34年に発足、園内地域別大会をひらくなど、一時は誰もが参加したが、長くは続かなかった。

 庭球・卓球

 テニスは昭和6年3月に用具一式を施設から支給され、同年4月に大会を開いている。野球ほどには流行らなかったが一部の愛好者によって続けられていたようである。戦後は青年団が主催して大会も催していたが、29年に青年団が解散してからテニスクラブとして独立。37年頃解散した。
 卓球も昭和8年5月に用具一式を支給され、同年8月に第1回大会を開いた、と記録にある。戦後はテニスと同様の道をたどり、瀬戸内三園の交流大会を開いたこともあるが、昭和38年頃解散した。

 将 棋

 明治43年頃から手製の盤でやっていたようで、第1回の大会は大正10年、と記録にある。当時の娯楽会(自治会の前身)から賞金が出て、盆の余興として、その都度世話人を依頼して大会を開いていた。当時は盲人で強い人が何人かいた。
 戦後、藤内金吾六段が指導に来園されるようになり、それがきっかけとなって昭和25年に「将棋飛竜会」が発足した。今をときめく内藤国雄九段も、六段当時何度か来園された。日本将棋連盟大島青松園支部として認可されたのは37年頃で、会員も30名をこえた。そのうち四段から初段までの有段者7名。それから少しずつ碁の方へ走り、50年頃解散した。

 菊友会

 盆栽、草花、菊作りの同好者が集まり、「園芸親好会」が発足したのは昭和26年。第1回の菊花展を開いたのが28年。それから菊を作る者がふえ、34年頃には会員も100名を越えた。そして会も「菊友会」と改めた。
 当時分館職員の木村宗一氏の尽力によって、28年から仏生山や玉藻公園の菊花展にも毎年出品するようになった。33年には玉藻公園菊友会にも加入し、当時の木田高校の鎌倉先生、玉藻公園菊友会の赤木先生から指導を受けるようになってから技術も向上し、菊花展でも毎年入賞するようになった。仏生山では商工会賞、重陽会長賞、玉藻公園では知事賞、市長賞を何度も獲得した。39年には農林大臣賞も受賞した。しかし不自由度の進行で会員も少しずつ減り、会も53年には自然消滅となった。だが今でも一部の人は、それぞれに美しい花を咲かせている。


〈現存する公認団体〉

 会員5名以上で組織した団体は、申請すれば自治会の公認団体として認められる。しかし何の助成もされず、自主的に運営することになっている。宗教団体や、各県人会も公認団体である。盲人会や百寿会は特定の団体として、自治会から補助を受けている。
 活動はしているが公認団体として申請していない団体もある。文芸の「歌人会」「火星俳句会」である。また最近(55年)、「書道クラブ」も誕生し、毎月講師を招いて勉強している。会員20名余り。
 入園者が老令化していく現実を見つめ、もっと余生を楽しむことを考え、趣味活動の台頭がのぞまれている。

 紅絵画会

 “くれない”絵画会は昭和25年に結成。27年には14名の人数で静物に風景にととり組み、発足後から十数年間、秋の文化祭には数多くの作品を出展していたが、近年はその動きも緩慢となり、盆灯篭画きや、恒例化している藤楓協会主催の療養作品展示会にも1、2点の出品をするのみ。現在の会員は5名である。

 カメラクラブ

 ー般社会の写真ブームの波にのり、昭和34年に結成されたカメラクラブは、次第にその人数も増してゆき、入園者の5%に近い会員(23名)を有するクラブにふくらんでいった。
 発足以後は自治会主催の文化祭に毎年出展し、会場の雰囲気を盛りあげていた。現在、写真のカラー化に反比例してクラブの活動は後退しているが、バスレク時や旅行に出かけたとき、個人でスナップ写真をとるなど、写真愛好家は多い。

 ひさご川柳会

 ひょうたん型をした大島の地形から“ひさご”と名づけられた川柳会が生まれたのは、昭和23年10月。
 会員の意欲は旺盛で、7年後自治会の援助を得て、合同句集「ひさご」が発行されたが、すでに36名で作品900余句が収載できるほど成長している。
 当時の「ふあうすと」誌の主幹椙元紋太師(故人)の来園を始め、同誌同人の山本芳伸氏(高松市在住)らの指導をえて、有能な柳人が育っていった。現在は「青松」誌に投句する一方、各々結社への投稿を続けている。
 会員の変遷はめまぐるしく、発足当時の若干名を含む現在の8名は、文芸団体の中で唯一の公認団体として、研究と作句をおこたらず、初志の目的にむかって精進している。

 囲碁春秋会

 開所以後、早くから碁、将棋は一般の娯楽の主役をはたしていて、自治会創立以前から同好者で盆、正月大会をひらいていたようである。その後将棋盤と碁盤は寮の備品として、施設側より貸与され普及していった。
 戦後の25年32名で囲碁春秋会を結成し、39年8月には、日本棋院大島青松園支部として認可されるまでに成長した。以来、高松の日下包夫七段が時々指導に来園されるようになり、ますますその熱はたかまって行き、48年秋には、全国ハ氏病囲碁選手権大会を大島で開催した。その時から特に宇治市の曽根久郎先生より援助をうけるようになっているが、全国大会を主催したころの囲碁会が全盛期のようであった。
 現在の会員27名中、五段2名、四段2名、三段から初段13名、あとは級位者となっている。最近は老齢化と健康の低下とともに、年々下火になっているが、年3回の大会は開催している。

 麻雀クラブ

 昭和の初期、ある入園者が牌をもちこんだのが始まりとされているが、徐々に普及し、のちには竹で手製のパイをつくり、無聊を慰めるようになっていった。戦前と戦後しばらくは寮内でゲームを行なうことは、自治会から禁止されていたので、盆とか正月にはその都度、会場を借りて大会を開いていた。
 牌とのなじみが永いわりに会の発足は昭和30年。現在の会員数は11名である。その内のごく一部の者が時たま寮の片隅で楽しんでいるようである。

 漁友会

 戦前には逃走者が多く、個人で船をもつことは夢のまた夢であった。昭和28年、オール付ボートが4隻、遊覧用として園から貸与された。しかし100メートル以上沖に出てはならないと規制されてはいたが、初めて自分の手でオールをこいで、島から離れた喜びは何ものにも例えようがなかった。それに刺激されて31年に漁友会が誕生。各自手こぎの伝馬船をあやつって釣りを楽しむようになっていった。
 現在の会員44名、それぞれモーターボートを購入している。遠くに出かけては大きいもので50センチにも及ぶハマチ釣りや、若布とり、あじ、めばる、べら、かれい等々、四季を通じて島の周辺には釣場が多い。

カクタスクラブ

昭和35年頃、外部のカクタスブームの波にのり、当時、医事班長(現福祉室長)の海老沼健次(故人)さんのアドバイスもあって、十数名の人数で発足した。サボテンの種類は20種ほどで、各々30鉢位いはくだらない数を持っていたようである。尉安、娯楽の乏しかった時代に菊友会と並んで、地味ではあったが活発さが感じられた。
 以来20年、今もその名残りが治療棟付近にみられるが、会員11名細々ながらサボテン育成につとめている。

 青松盆栽愛好会

 早くから思い思いに鉢ものを楽しんでいた人たちによって、48年6月60人の会員で発足した青松盆栽愛好会は、歳月を経るごとに盆栽の数はふえ、現在の会員83名で2000鉢はくだらないであろうという盛況さになっている。
 その主体は黒松とさつきで、他に錦松、五葉松、欅、樫、楓などがあげられるが、自治会から指定された場所五ヵ所と、一般島民の地所の一部を借りて、或いは自分の寮の前に並べ、整枝と消毒と水やりに励んでいる。時には盆栽を前にしてその話に花が咲く。特に5月下旬から6月上旬のさつきの聞花期の景観は実にみごとである。その時期に会主催で毎年展示会が聞かれているが、併行して講師を招聘し指導をうけ、技術の向上に努めている。会員のなかには「屋島さつき会」に十数名入会していて、意慾的にとりくんでいる。園内における松を主とした盆栽の展示会は、結成以来5回程度であるが、その都度、県農事試験場から技師を招いて指導をうけているほか、県下で催されている展示会を「やしま号」でみて廻り、盆栽づくりのむずかしさと、その奥儀をきわめようと、見学をかねたバスレクも毎年実施している。
 近年、恒例になりつつある香川県庁ロビーにおけるさつき展示会は、52年6月からすでに4回行なっており、県保健部で用意したハ氏病に関するパンフレットを、県庁を訪れた人たちに配布するとともに、啓蒙の役も十二分にはたしており、ともに好評で、NHKテレビで西日本全域に紹介されるなど、作ることの喜びとあわせて、会員の盆栽育成への熱意はさらに深まっている。

 松葉会

 松葉会は義肢及び補装具の着用者で、相互の親睦と福祉の増進を目的として、37年に発足した。組織的な活動はしていないが、当時は国費の身体障害者諸費の示達予算も少なく、義肢、補装具の更新も仲々してもらえなかっただけに苦労も多かった。徐々にではあるが予算も増し、専任の職員によって、製作から補修まで、支障のないようにやってもらえるようになった。
 現在の会員は57名。片義足35名、両義足7名、補装具使用者72名と、入会していない人を含めて、以外に多い実状にある。

 傷痍軍人会

 もと戦傷病者によって、恩給増額の運動より端を発して生まれた、傷痍軍人会の設立は昭和37年であった。発足後は年何回か総会を開いたり、春秋にバスレク等を実施して、相互の対話を深めている親睦団体である。日本傷痍軍人会の傘下にあり、香川県支部の会合には、正副会長らがたびたび出かけており、近年は年1回開かれる全国大会に数名の者が出席し、社会人と伍して活動を行なっている。
 最近は、妻の会、遺族会、軍恩内発の世話等、45名の会員をかかえ、世話入たちは多忙である。

 日本社会党大島支部

 戦後、思想信条の自由化の道はひらかれたけれど、政治的なこのグループが誕生したのは39年であった。結成当時、党員、党友あわせ30名程度で、さかんに研究会を開いていたが、最近ではその人数も半減(15名)あまり積極的な活動はしていない。

 友興会

 友興会は、昭和35年朝鮮、韓国出身の人々によって結成された。動機となったのは、34年に国民年金が発足した折で、外国人はその支給対象から全く除外されており、平等支給の運動を展開した時であった。
 この人たちは、戦時中に日本で強制労働をさせられ、そして発病、二重、三重の差別をうけ、療養所に入所したものであるが、現在もなお国民年金の支給対象になっていないので、その支給方を強くのぞんでいる。現会員10名。

 盲人会

 昭和7年5月27日、園内でも底辺におかれていた盲人たちが、みずからの福祉はみずからの手で向上させようと、療養所の暗黒時代に、わずか65名の者で杖の友会を結成した。会合その他の世話は青年団、婦人会の幹部が、主にその労をとっていたが、29年にそれぞれ解散してしまった。会員の必死の努力と、関係者の尽力によって、幸いにも初めて杖の友会世話人が2名(現在4名)作業制度の中に、とりいれられてゆき、友園盲入会との文書による交流も頻繁になっていった。30年5月には、全国ハンセン氏病盲人連合協議会(全盲連)を結成し、翌年統一して盲人会と名称を変更、活動を開始した。33年7月瀬戸内三園盲人協議会をはじめて愛生園で開き、一時中断はあったものの、有意義な討議が行なわれ、現在まで17回を重ねている。
 専任の世話人がつくようになって、徐々にではあるが、サークル活動ができるようになっていった。その活動も民謡、音楽練習、点字習得で、しかも空室を借りての活動は遠慮がちであったが、会員は意慾にもえ、ガリ版刷りによる機関誌「灯台」を29年に初めて発行し、現在まで88号を数えている。(18号からは活版刷り)
 間借り状態の会活動ではあっても、32年ごろの障害福祉年金獲得運動、33年当時の不自由者看護の職員への切替え問題には、自治会を動かせ、めぎましい躍進ぷりをみせた。この二点によっても園内は大きく変貌した。ようやくにして34年8月、当時恩賜会館であった建物の材料を主体に、MTLその他篤志家の援助を得て、待望久しかった盲人会館が竣工したのであった。
 以後の盲入会はますます活発化し、厚生省に対し、自分らの身体的ハンディの窮状を訴える要請書の発送やら、四国地方医務局への陳情、41年には全盲連本部による厚生省への直接陳情によって、盲人福祉は少しずつ改善されてゆき、翌年より2ヵ年にわたって、国費による盲人教養文化費示達で、トランジスターラジオの無償貸与、盲導索設備費による園内のガードレールの設置、盲導鈴費示達によって、電動でチンチン式の味気ない道しるべから、美しい音色の盲導鈴に改善されるなど、多くの成果をあげてきた。
 外部諸団体との交流も活発で、点訳奉仕グループの奈良女子大生、定期的に来園下さっている奈良真和会とのつながりに加え、42年6月からは、盲人7名宛がお里、沢一で有名な壷阪寺の招待で、2泊3日の奈良旅行に行っているが、今まで6回の招待で、40名余の者が奈良方面に足をはこんでいることになる。現在の会員70名の内のクラブ活動としては、文芸で短歌、俳句、川柳、余興として冠句、なぞなぞ、ものは付け、音楽ではハーモニカ演奏、民謡の練習、点字部においては、暑中見舞、年賀状打ち、更にはテープ文庫の拡充と、声の機関誌の充実に力をそそいでいる。年中行事としては年2回の総会、ひな祭、七夕、月見、山遊びで会員相互の親睦を深めているほか、かって行なった園の船による瀬戸内の島めぐりに代って、春秋定期的に外部へのバスによるレクリエーションを実施している。また、大島桟橋においての、それぞれ介助者のついた釣り大会でにぎわう等々である。加えて、51年4月より2ヵ年間全盲連本部を担当して、全国組織の先頭に立って活動し、支部の総力をあげて成しとげた功績は大である。
 自治会では盲入会を特定団体に指定し、他の諸団体にはしていない補助と、経済的な援助を行なっているほか、老朽と手ぜまになりつつある盲人会館を再建すべく、現在計画中である。

 百寿会

 65才以上をもって組織している百寿会は、季節によって賑わいをみせており、細々ながら意慾をもった会である。昭和48年6月14日116名の者で結成された。発足の原動力となって終始盛りたててくれたのは、当時の大西基四夫園長(現全生園長)であったし、今は退職されている木村重夫前福祉室長であり、ときの自治会執行部であった。会を組織してからも、先頭に立つ幹部たちは暗中模索の状態であったが、手始めに“ラジオ体操の会”“歩け歩け運動”など、種々の行事を計画したりして、徐々に軌道にのせていった。
 殼にとじこもったまま、自分の居室からは、一歩も出ようとしない引っ込み思案の者を、いかにして会合に集めるか苦心したようであり、寄附金や自治会の助成金をもってまかなう会の会計も、教養、娯楽方面に多くの予算を投入できず、もっぱら嗜好物の配給についやしていたようである。現在入園者の約30%の170名に達した百寿会は、発足5年目ごろから漸くその動きも活発化しはしめた。年中行事としての春秋のバスレクには、少なくても30名の参加はくだらない模様であるし、54年には26万余円の予算でオーディオ購入を機に、園関係者、自治会執行部を招いて、審査してもらうカラオケのど自慢大会年3回を始め、輪投げ大会を年4回、トランプ大会を年3回、その他定期的に行なう文芸募集等、老化を少しでも防ぐのを目的に、対話と健康の保持をかねた親睦会が、度々開催されている。創立当時には考えられなかった程の、6、7〇名の者が、毎回一堂に会すようになっているのは、一人一人の会員の協力はさることながら、幹部たちのたゆみない努力の結晶であろう。
 自治会でも発足当時より、盲人会と同様特定団体に指定し、他の団体には行なっていない助成金をはじめ、必要な補助をしている一方、毎年9月15日の敬老の日には、自治会主催で慰労会をひらき、会発足前の46年からは庵治町長、町議会議長ほか関係者、園長以下幹部職員を招待している。庵治町からは、老人クラブ助成費として、年間5万円余りの補助をうけているほか、敬老会には70才以上の者に祝品料をもらっている。一方国費として示達されるのは、老人クラブ運営費、老人機能回復訓練材料費あわせて35万円余であるが、これとてもごく最近予算化されはしめた費目であり、活発になりはしめた百寿会には、物足らない予算額であろう。
 盲人会とちがって外部との交流は少なく、宇治市の曽根久郎先生が、毎年引卒してくださる喜楽会の老人たちとの、数時間にわたる話しあいのほか、全国ハ氏病療養所の高齢者で組織している「金高連」に加入はしていないが、本部が求めた必要時の調査とその報告、及び本部における国会陳情には、支援しているのが現状である。

 ゲートボールクラブ

 療善所の最後のスポーツであろうと言われているゲートボールが、園内に入ってきて3年余り。クラブは53年2月6日、60名で結成して以来、これ程熱狂的に愛され、親しまれ、園内で一躍活動しているグループは稀である。
 野球、ソフトボール等と違い、誰もができるということで、愛好者の老若男女にとっては、暑さや寒さもなんのその、その練習に励むほど何かの魅力がひそんでいる。52年春、自治会執行部が星塚敬愛園から、用具の斡旋をしてもらい、自由に貸し出せるように備えていたが、誰もこのゲームに手を出そうとしなかった。その秋、当時の栄養係長の栄握美氏の指導のもと、先ず自治会役職員で行なったのが最初であった。
 現在コートは二面あるが、1つのコートの広さは縦20メートル、横25メートルで、場所をとる関係上、寮舎の空地を利用することはできず、グラウンドに設けてみんなそこに通っては、快音をはなっている。1ゲームの時間は25分で、10人の者が紅白にわかれ、合成樹脂の球を槌ふうのスティックで打ち、高さ30センチ、巾22センチのゲート3ヵ所を通過させてゆくが、ゲーム中に敵を妨害しながら、味方を有利に導き、中央のポールに打ちあてて得点をきそう競技である。
 もともと高齢者むきに考案されたスポーツのようであるが、クラブ員の年令層は園内にしては平均に若く、65才以上の百寿会員は5名、最年少者は35才、あとは40才、50才代が主体を占め、51名で8チームをつくっている。
 香川県には、老人たちによるゲートボールによく似た、クロッケーボールが盛んなようで、新聞に掲載された記事など時々見うけるが、ルール面も大きく違うようである。
従ってそれら地域住民との対外試合などできる状態ではない。しかしハ氏病療養所のどの園とも、ゲートボールが盛んで、友園の熊本の菊池恵楓園、鹿児島の星塚敬愛園では、早くから県大会に出ては優勝したりして、そのレベルの高さを県下に示しているようである。その両園から、先年親善交流を利用して指導に来園されたり、グループで先方へ伺った際に、観光のかたわら教えをうけたりすることが、頻繁になりつつある。瀬戸内三園でも「星塚」に追いつけ、おい越せの意気込みで、にわかに盛況になり始めた。
 そのことを知った元当園に勤務していた、宇治市の曽根久郎病院長が特にご尽力下さり、55年10月岡山の長島愛生園、邑久光明園の強カメンバー、各々2チームを当園に招待して、2泊3日の日程でリーグ戦15試合が実施されるなど、ますます発展してゆくようである。

  

「閉ざされた島の昭和史」大島青松園入所者自治会発行
昭和56年12月8日 3版発行


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