閉ざされた島の昭和史   国立療養所大島青松園 入園者自治会五十年史

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入園者の証言と生活記録

治療の変遷       井上 真佐夫

 当園においてプロミン治療がはじめられたのは、敗戦が残した混乱と、その虚脱状態のなかから少しずつ正常に立ち直りかけた、昭和23年の秋であった。
 予算不足の上に、プロミンそのものも不足していた時代であった為に、駁初にその治療を受けることになったのは、
20名か30名位であったと思う。医局において、厳正な診察の結果決定した患者たちである。が、当園においては、勿論新薬プロミンはこれから試薬する段階であったので、評価通りの効果を期待する反面では、今までに何回となく身をもって試されて来た新薬と同様に、またダマサレて、進行している病状に、さらに拍車をかける結果になるのではあるまいか、との不安もいだいていた。
 藁にもすがりたい心理と、またしてもモルモットにされるのではないかと言う片隅の不安と、その上に、此処まで病状が悪化した以上、もうどうにでもなれ、という捨鉢的な、或いは一種の賭に似た気持までもはたらいていた。
 このようにして、さまざまに錯綜した心理状態のなかではじめられたプロミンであったが、注射を打ち始めてから半月も経たぬうちに、あの治療開始以前に重苦しく抱いて いた不安の翳りが、スーツと払い除けられてゆくような効果のキザシが現われ出した。
 一番に効きはじめたのは咽喉であった。急にのどが開いた感じで、呼吸が楽に出来るようになったし、一年以上も全く出なかった声が、半月ほどの注射によって、自分ながら変な声だと思うハスキーな声が出だした。3ヵ月も経った頃には、失明していた目に、わずかにものの像を映すようになった。まことに著しい薬効であった。
 かくして、咽喉切開の一歩手前まで追いつめられていた私ののども、そのギリギリの処で救われたし、一たんは盲人の仲間入りをしていた目も、どうにか光りを取りもどして、弱視ながら、あれから20余年後のこん日なお、ものを見、不充分乍ら読み書きも出来るという人間最大の喜びを与えてくれたのもプロミンである。全身に潰瘍ができていて、看護婦さんが、私ひとりに1時間もかかってホータイ交換をしてくれていたが、その頃の私には、
 「キズの横綱-。」
 という、まことに有難くない、番付の最高位に推されていたものだが、その潰瘍もほどなく治癒して、全身をザンブと浸して入浴できるようになったし、さしもの頑強に抵抗しつづけた皮下結節も、治療開始後数ヵ月にしてキレイに吸収してしまった。
 神経型の患者には、あまり薬効を現わさなかったプロミンだが、私たちのような結節型にとっては、まことに著効を示した新薬であって、正にプロミン様さまである。
 このようにしてハンセン氏病の治療に、画期的変革をもたらした新薬プロミンが当園に導入されたのは、前述の通りの昭和23年だが、これが、わが国にはじめて渡来したのは、これより2年早い21年であった。
 東大皮膚科と、多磨全生園においてそれの臨床実験が行われたが、その段階を経て各園に配布になったものである。
 アメリカにおいては、このスルフォン製剤の新薬プロミンを、すでに昭和16年(1941)からハ氏病治療に使用して著効をあげているのである。
 昭和16年といえば、その年の12月8日ハワイ真珠湾への奇襲攻撃をかけて、日本が敗戦の泥沼へつづく無謀な太平洋戦争に突入した年であるが、あのいまわしい戦争が若しなかったとしたら、プロミンの渡来は2年や3年は早められたのではないかと想われるのである。死んだ子の年を数えるに等しい愚痴になるが、その頃のことを思うと無性に腹立たしさ悔しさを忘れる事が出きない一人である。
 当時は、戦争という最も野蛮な殺戮行為が国民生活のすべてに優先した極度の不自由さの中で、ハ氏病の治療薬も、戦争の激化に正比例して月づき、年ねん窮乏の度を加えて行った。
 明治42年の当園開所以来、治らい薬として使用していた大風子油は、堺市の岡村製で、その色は濃い卵黄色のもので、色といい濃度といい、一見いかにもよく効く感じの薬剤であった。
 昭和九年頃からは、ライ予防協会が大風子油の製造を始めたので、以後はもっぱらこの方の薬剤を使うようになったが、予防協会のものは、岡村製に比べると、色もずっと薄くて、何んとなく頼リなく思われたものであった。その大風子油も、太平洋戦争ごろからはその濃度が更にウスくなって、透明に近い状態にまで低下していた。それは、戦争による原料の輸入困難から来たものであった。大風子油は少量で、その大部分はテレビン油か、オリーブ油であると、当時誰からか聞いたが、そうした粗悪な大風子油注射であったから、治らい効果をあげるというものではなくて、ほんの気休め程度の治療であった。
 その気安めに打っていた大風子も、やがて皆無の時期が来た。戦争がいよいよ苛烈さを加えていった昭和17年頃以降には、治らい薬と名のつく薬はまるっきり無い時代であった。
 比較的軽症な者たちは、薪割の奉仕作業や防空壕掘りや、食糧増産のための耕作にも休を酷使した。そのことが、食糧不足から来る栄養失調症に拍車をかけたし、また、病状も進行させる結果となった。奉仕作業などにかり出されない不自由者たちも、栄養失調と、治療の皆無のために同じように病状を悪化させた。その上に、弱身につけこむ合併症の追い打ちまでかけられて、ひとたまりもなく、ばたばたと死んでいった。
 療養者にとって、何よりの拠りどころである「治療」の場が事実上失われるという、最も暗くて不幸な時代の中で、ポッカリと開いたトンネルのロから、一条の光が眩しく差し込んで来るような朗報が伝わった。それは“らいの特効薬が出現”という大々的なふれ込みで療園に登場した「セファランチン」であった。昭和17年である。
 もろもろの悪条件下で、とどまることを知らず転落してゆく病状に呻吟していた療園であって見れば、特効薬出現に、俄然色めき立ったのは当然である。
 この救世主ともいうべきセファランチンをめぐってその服薬組に対するそねみや妬みが渦巻いた。医局に対する不信の声にも発展した。が、二班、三班、四班と服薬組が増加してゆくうちに、病者間に渦巻いていた嫉妬や、羨望の声が先細りに消えて、それらが逆に、薬に対する不満や不信の声に転嫁される日が来た。それは、セファランチンの服薬によって、転落をつづける病勢に歯止めをかけるどころか、そのことが正反対に、悪化する病状に加速度を加える結果となったからである。
 ジャーナリズムの鳴物入りで登場した特効薬セファランチンであったが、実は不幸にも裏目と出て、病状は更に進行し、そのことが余病をも誘発して、最悪の死者までかなり出してしまったのである。
 つづいて出た「虹波」も、これと大同小異の結果しか見ることができなかった。
 先きにも触れたように、大風子注射は皆無、セファランチンも虹波も駄目となると、われわれ病者の縋りつくものは何一つなく、全く見捨てられた存在となった。が、人間、ギリギリの極限状態に追いつめられると、何等かの自衛の手段を考え出すものである。
 誰が言い出したのか、何処から聞きつけたのか分らないが、
 「朝鮮にはまだ大風子油があって、何んとか入手出来そうだ―」
 と教えてくれる人がいた。それで早速、釜山市の或る薬店に注文することにした。500グラム1瓶が3円か4円位だったと思うが、品物は暫くして郵送されてきた。この大風子油は岡村製のものより一段と濃い卵黄色-というより番茶色をした製品であった。イイギリ科で、ヒドノカルプス属の植物の種子から採ると言われる薬液だが、人手不足か何かで濾過が完全に行われていないらしく、不純物があることは、それだけ体内への吸収を悪くするし、注射そのものが化膿する恐れもある訳だが、そんなことを、いちいち取りあげている余裕のある時代ではなかった。
 その後、あちらこちらの寮で大風子油を打つ日課がはじまった。ハッタイ粉を、大風子油で練って作った自家製の丸薬も服んだ。
 病者間では、この大風子油を釜山から取り寄せる人がだんだんあったようだし、私白身もそれから2回ほど取り寄せたが、その二回目に、
 「ちょっと用事があるから分館に来るように……」
 との連絡であったので行って見ると、例の釜山から郵送されて来た大風子油の菰包みをカウンターの上に置いて、分館員の一人が固い表情で立っていた。私を見るなり、
 「この小包の中味は何んだ!」と先ず一喝を浴びせて来た。
 釜山から送られて来る大風子油は、遠隔の関係もあってか、破損しないようにとの配慮から、丁寧に菰包みにされて、その上を十文字に荒縄でしばられていたが、この同じ格好の小包がしばしば届くようになったので、分館でも、なんとなく不審に思っていたらしいが、それが、何時か大風子油であることが判ったからたまらない。忽ち呼びつけられて、お説教を聞かされる羽目になった次第である。
 と言うのは、他園もそうであったろうが、当時は患者が勝手に医薬品を購入したり、使用してはならないキマリになっていた。正式の理由は、医療に知識のない患者が医薬品を購入して、それを勝手に使うことは危険をともなうし、医師が行う治療面にも悪影響をおよぽすから……。というものであった。これは、正論であるには違いなかったが、しかしそれには、ちゃんとした正規の治療を行なっているという前提が必要であろうと思われるのだが、当時のように、治療らしい治療は殆んど行なわれていない、本病そのものの基本治療に到っては、大風子注射は皆無、セファランチンも虹波も駄目となって、病状が一日一日目に見えて悪化してゆく本人たちにとってみれば、何がしかの自衛の手段をこうじたくなるのも、極めて自然のなりゆきであろう。してみると、大風子油を買った位のことで、それほど目くじらをたてて叱りつけるほどのこともあるまいに…」と低頭している頭の上を通りぬけてゆくお説教を聞きながら思ったものである。
 誓約書までは書かされなかったが、兎に角、以後は薬は取り寄せないという条件と引き換えに、大風子は下げ渡してくれたが、その真面目人間の見本のような分館員を当時は憎んだものだが、今にして思えば、薬を渡してくれたことも、また、厳しく叱正したことも予定の行動ではなかったかと思うのである。というのは、いかに医療不足の戦時中とは言え、立場上、規則は規則として守らねばならぬし、そうかと言って、折角苦労して買ったものを没収してしまうのも可哀想だし、他の同僚への手前もあって、簡単に渡すことも出未ない。其処で、此処は一番心を鬼に、声を荒らげて叱りつけて、同僚たちからも。
 「それほど厳しく言わなくても…」
 と、逆に患者側に同情させるムードを作り上げたところで薬を渡してやる。という、少しばかり手の込んだ演出をしたのではあるまいか……… と。
 ともあれ、退職するまで患者に親切な分館員であっただけに、その心の奥をふと覗いて見たりもした訳である。
 このようなエピソードも含めて、長くて苦しかった戦争が終わり、冒頭でも触れているように、プロミン治療によるハ氏病の夜明けの時代を迎えたのである。が、またしても思われることは、ひと握りの連中によって引き起されたあの戦争がなかったら、そして、2年でも3年でも早くプロミン治療が行なわれていたとしたら……。多数の病友のいのちをとり止めたかも分らないし、また、失明その他の後遺症を残さずに治癒したかも分らないのである。そして、そのことが、社会復帰ということにもつながって、その人達の人生を百八十度転換していたかも分らないのである。 こうしたことなどを思うと、あの戦争は、社会一般の人たちの全く気付かないような、いや病者同士でも、病状悪化という追いつめられた場に立たされていなかった者たちには気づかないかも知れない処で、此処にも、どうしても拭い切れない、諦め切れない深いキズ痕を残しているのである。私は執念ぶかく、このようなことを思うのである。
 プロミン以後DDS、チバ、プロトソール、セルチノン、ピリタジン、アセタミン等の新薬の外に、ストレプトマイシン、カナマイシンなどの薬剤もハ氏病治療に使用されて、全国入園者の八十八Iセントが菌陰性者となるという素晴しい薬効を発揮した訳であるが、しかし、これらどの薬剤によっても、尚且つ菌を抑え切れない、所謂難治らいの事例も若干あるようだし、最近に至って八菌の耐性化による再燃患者も一部に現われて、前途に一抹の不安を投げかけているのも事実であるが、これらは、菌の耐性化によるものと、それ以前の、神経痛などの余病によって、DDS其の他の新薬治療が充分に行なわれなかったケースから来る再燃もあるのではあるまいか。

              (青松昭和4610月号より転載)

  

「閉ざされた島の昭和史」大島青松園入所者自治会発行
昭和56年12月8日 3版発行


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