ハンセン病元患者さんたちは、強制隔離政策のため長い間「療養所」で隔離生活を余儀なくされてこられました。 療養所では今日、衣食住の保障、人権の尊重が行われ外部からの来園者も多くなりました。 けれど、らい予防法撤廃、人権回復はあまりに遅すぎた感があります。 わずかな人たちを除くと、ほとんどの人たちは家族・親族との縁は切れたまま、強制隔離以来、一度も家族と会っていない方、故郷に帰っていない方も大勢いらっしゃいます。 家族の中には、ハンセン病療養所に暮らす兄弟・姉妹がいることを知らない場合もあるようです。 家族、元患者双方にとってハンセン病の歴史は重いものです。 日本での記述は「日本書紀」の時代にまでさかのぼります。 「日本書紀」に「百済の国より来たる者あり。その面身、皆白斑なり。白癩(しろはた)有る者か」(612年)とあり、833年には大宝令の注釈書「令義解」に詳細な症状が載りました。(佐竹義継 「菊地野」) 以後、中世には僧を中心に、近代ではポルトガル人宣教師の手によって各地に療養所が設置されました。 ハンセン病は長い間”天刑病”と呼ばれ、その呼称通り悪い因習による”障り”として一般に知られていました。 しかし、1830年に丹後の岡村齢台は「医療察病考」で天刑病ではないと言い、早期治療を説いています。 また、同年、紀州の宇井謙安が「医療瑣談」初編巻の下で遺伝説を否定、「毒」によるものとしてやはり、早期治療を説いています。 (現在、ハンセン病の治療は早期なら1日に1回、2〜3種類の薬の内服を自宅で行なえば治癒する。1回目の服薬より数日後には菌の感染性は失われるため、特別な消毒や隔離の必要はない。国内で1年間に数名の新患者が発見されるが、ほとんどが海外からの移住者である。世界でも患者数は50万人に減少し、WHOの目標ー人口1万人に1名以内の患者数にするーを達成できていない国は数カ国のみとなった。) さて、明治以後のことは、主要と思われる事項を編年体により記します。 なお、病名の表記には、それぞれの時代に即して、「癩」「らい」「ハンセン氏病」「ハンセン病」を用います。 |
1873(明治6年) | ノルウェーのアルマウェル・ハンセンがらい菌を発見。 「らい菌の体内侵入による慢性感染症である」ことがハンセン氏によって解明されたことにちなんで、現在の病名がつけられている。 |
1907(明治40年) | 「癩予防ニ関スル件」(旧らい予防法)制定。 放浪する患者を隔離収容。 |
1909(明治42年) | 4月。「癩予防ニ関スル件」(旧らい予防法)施行。 大島療養所(現在の大島青松園)他、府県連合立5療養所を開所。 |
1915(大正4年) | 2月。光田健輔氏、内務省に「癩予防ニ関スル意見」提出。 断種手術始まる。 |
1916(大正5年) | 「癩予防ニ関スル件」一部改定。 懲戒検束が加わる。 (療養所所長に患者懲戒検束権を付与。) |
1919(大正8年) | 光田氏、内務省に「癩予防ニ関スル意見」提出。(強制隔離推進の意見書) 内務省によるらい患者一斉検診。 |
1920(大正9年) | 9月。内務省保健衛生調査会は10,000人収容を目標・目的とした「根本的癩予防策要綱」を決定する。 |
1921(大正10年) | 内務省による第3回らい患者一斉検診。患者総数16,261人。 |
1929(昭和4年) | 無らい県運動始まる。 10月。大阪帝国大学に大阪皮膚病研究所を設置。 らいの研究も行う。 |
1930(昭和5年) | 12月。内務省、「癩の根絶策」を発表。 最初の国立療養所「長島愛生園」設立。初代園長に光田氏就任。 |
1931(昭和6年) | 1月。「国立癩療養所患者懲戒検束規定」認可交付。 皇太后後下賜金10万円を基金に癩予防法協会設立。 4月。「癩予防法」(旧法)制定。 全ての患者を対象とする絶対隔離を目指す。 入所費をすべて無料化。 6月。皇太后御誕生辰日、この日を「らい予防デー」と定め、らい予防週間始まる。 同年、大島療養所では圧力的待遇への不満から独自に自治会を結成、発足する。 |
1932(昭和7年) | 第1回らい療養所協議会が開かれ、軽快患者仮退所や療養所内における思想取締りについて協議される。 同年、大島療養所では自治会ニュース「報知大島」第1号発行。 「青松誌」の前身である「藻汐草」発行。 |
1935(昭和10年) | 全国らい患者の一斉調査。 患者総数、15,193人。 |
1936(昭和11年) | 10月。療養所の所長会議で、「不良患者」に対する処罰の確立を求める陳述書を司法大臣に提出。 同年、大島療養所では初の印刷機による「報知大島」発行。 |
1939(昭和14年) | 2月。「沖縄県救らい協会」設立。 |
1941(昭和16年) | 7月。5公立療養所を国立に移管。 (以後、昭和19年の駿河療養所設立で、国立療養所は13ヶ所になる) 12月。日本軍真珠湾攻撃。 アメリカのカービル療養所(らい療養所)でプロミン(らい治療の特効薬)使用。 |
1945(昭和20年) | 戦争終結。 10月。入所患者に公民権認可。 |
1946(昭和21年) | 日本でも石森守三教授がプロミンの合成に成功。 |
1947(昭和22年) | 患者収容を含む衛生行政事務が警察から保健所へ、衛生行政が内務省から厚生省へ移管。 草津特別病室事件発覚。 |
1948(昭和23年) | 7月。優生保護法交付。(遺伝性疾患ではないらいの優生手術が合法化) 各療養所に中学校設置。 プロミン治療を試験的に開始。 同年、青松園では「青松」印刷第1号、300部を発行。 |
1949(昭和24年) | 2月。プロミン獲得運動で全ての患者にプロミン治療が始まる。 4月。全国一律に療養所慰安金200円(月額)が厚生省予算で決定。 |
1951(昭和26年) | 2月。全国国立癩療養所患者協議会(全患協・後に全国ハンセン氏病患者協議会と改称)発足・現全国ハンセン病療養所入所者協議会結成。 光田氏ら3人の療養所園長が、患者の収容強化、断種推奨、逃亡罪の罰則強化を国会で主張。 藤本事件。 |
1953(昭和28年) | 「らい予防法」闘争が展開。 「全患協」が、保護法化、病名変更、家族の保護、懲戒検束規定廃止、強制収容の条項削除、退所・帰省の法定、秘密保持などを柱とした、治る時代に合った法改正を求めて国会裏等で座り込み。各園内でデモ・ハンスト。 8月。らい予防法(新法)施行。9項目の付帯決議を獲得。 |
1954(昭和29年) | らい予防法一部改正。 家族擁護が確立。病棟看護の職員化始まる。 黒髪校事件。 |
1956(昭和31年) | 4月。「ローマ会議」(らい患者の救済と社会復帰に関する国際会議)が開かれる。 「ローマ宣言」にて日本のらい対策が国際的潮流から乖離していることが明らかになる。 (ローマ宣言・・・特別法の廃止、療養所中心主義からの脱却、社会復帰援助を主とした宣言。) |
1958(昭和33年) | 第7回国際らい学会議が東京で開催。 らい対策の主流は患者の施設収容隔離ではなく、一般保健・医療機関での治療を主体とする外来治療によるべきと議決。日本のらい対策への実質的な批判となった。 退所者援護のための世帯更正資金の貸付始まる。 10月。厚生省、軽快退所の医学的基準を発表。(長期の菌陰性を条件とする厳しいもの。) |
1959年(昭和34年) | 12月。在日外国人ハンセン氏病患者同盟発足。 |
1960(昭和35年) | 厚生省、不自由者の職員看護切り替え始まる。 (この時点まで軽症者が不自由者の看護を行わされていた。) |
1962(昭和37年) | 厚生省、軽快退所者等在宅療養者指導要領を各都道府県に通知。 |
1963(昭和38年) | 6月。「救ライの日」の名称を「らいを正しく理解する日」と改める。 7月。全患協、独自の「ハンセン氏病予防法」改正草案を発表。 |
1964(昭和39年) | 全患協、不自由者看護の職員切り替え完全実施を求めた「六・五闘争」 軽快退所者に対する就労助成金が計上される。 |
1968年(昭和43年) | 全患協、七月行動。日用品費の生活保護費並みへの増額と、国民年金法改正までの間、盲人・高齢者・在日外国人に特別措置として給付金を支給することを求めた。 |
1969(昭和44年) | らい調査会(厚生省の委託機関)発足。 |
1970年(昭和45年) | らい調査会が、療養所内の年金解決に向けて、自用費を含む答申を出す。 |
1972(昭和47年) | 7月。入園者給与金が国民年金拠出制1級相当額となり、基本待遇が確立。 全患協、「ハンセン氏病療養所の医療を充実させる総決起集会」と「医者をよこせデモ」 |
1974(昭和49年) | ハンセンのらい菌100年を記念して、第10回国際らい会議がベルゲンで開催される。 |
1988(昭和63年) | 「邑久長島大橋」開通。 長島愛生園と邑久光明園がある長島とを結ぶ橋で、人間回復の橋と呼ばれる。 |
1993(平成5年) | 「高松宮記念ハンセン病資料館」が東京の多摩全生園脇に開館。 |
1996(平成8年) | 「らい予防法」廃止。 |
1998(平成10年) | 元患者13人が熊本地裁に「らい予防法」違憲国家賠償請求訴訟を提訴。 |
1999(平成11年) | 東京地裁、岡山地裁に「らい予防法」違憲国家賠償請求訴訟を提訴。 |
2001(平成13年) | 5月11日。「らい予防法」違憲国家賠償請求訴訟は熊本地裁において、らい予防法(新法)を違憲とし、厚生大臣の職務行為と国会議員の立法上の不作為について、国家賠償法上の違法性を認める判決をもって、原告全面勝訴。 国が控訴を断念。首相、国会が謝罪。 |
2002(平成14年) | 「ハンセン病に関する検証会議」設置。 |
2003年(平成15年) | 熊本県の黒川温泉で宿泊拒否事件。 |
2005(平成17年) | 同会議最終報告で、強制隔離政策は「未曾有の国家的人権侵害」と総括。 |
2006年(平成18年) | 旧植民地である韓国・台湾の患者・回復者に補償決定。 |
2007年(平成19年) | 4月1日:「高松宮記念ハンセン病資料館」が)「国立ハンセン病資料館」としてリニューアルオープン。 |
2009年(平成21年) |
4月1日:「ハンセン病問題の解決の促進に関する法律」(通称ハンセン病問題基本法)施行。 |
2019年(令和元年) | 7月12日。ハンセン病家族国家賠償請求訴訟(令和元年6月28日の熊本地方裁判所におけるハンセン病家族国家賠償請求訴訟判決)に対し、国は控訴断念。 内閣総理大臣談話及び政府声明文(厚生労働省HPより) |
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