詩と詩集の紹介
第2詩集 「分身」
「分身」より
きざはし
ざせつではない
階段なのだ
私がてらしたのは
この世のくらしにおごる人ではない
完璧なあなただ
ざせつしたのではない
いまはあなたへのきざはしにひれふして
きびしく鞭打たれる試練のときなのだ
人は笑う
私の生の不器用さを
でもやっぱり挫折したのではない
あなたによって不器用になれる自分を
愛せるのだから
手をかして下さい
十字架の上であなたが
父なる神をお呼びになったように
いま私も
あなたを呼んでいるのです
此の世のことを捨てきれない私は
あなたにてらしてなんと弱く
なんと小さいのでしょう
でもやっぱり挫折したのではない
あなたにてらすときだけ
私はみにくく愚かです
その寛大な愛にてらす故
その清らかな美にふれる故
おおそれは
一段高いあなたへのきざはしに
手をかけた
私の貧しい誕生です
後記より
私にとって、この現実はすべて詩を産むための母体でした。
苦しいときは苦しみを養分にして、悲しいときは悲しみを養分にして詩をみごもり、まるで月満ちて産まれ出る子供のように、ひとつずつひとつずつ作品が生まれました。その意味で詩はまさに分身です。
けれども書くことは常にきびしく、自分を高めることであると同時に自分をあばくことであり、美も醜もふくめて生存をあばくことです。書くとき私は、いつも高められるものであると同時にあばかれる存在でした。私という一個の存在は、ペンというメスであばかれ、さらけ出すことによってしかその存在を明確に示すことができないのです。そしてその示されたものにおいてのみ、詩人としての生命があり、示さなければすでに私は死体にひとしいものです。
詩を書くときの心理は、ぐれんの炎の中でもだえ苦しむ愛娘を見て、一枚の絵の完成のために非情に絵筆を運ぶあの地獄変(芥川龍之介作)の中の絵師の心に似ています。絵師の見ているのは焼かれている娘ですが、私の見ているものは、知恵と本能と神への目覚めの中で苦悩する自分自身の心です。どんなにそれが非情であっても見つめることによってしか詩は生まれない。また一面、私の詩は重箱の中をほじくるようだとも言われたりしますが、心という不思議な重箱は無限に広く、いくらほじくってみてもなお思いがけない感情がつまっていて、豊かな色彩に満ちあふれた魅力ある存在です。そして私は、あばかれ傷つきながらもその魅力からはなれることができず書きつづけることでしょう。
この詩集について
全71篇で、1969年に出版された第2詩集です。
電子書籍として「でじたる書房」より入手可能です。
ここでも随時ご紹介していきますので、お楽しみに。
「はだか木」以降の昭和37年(1962年)から昭和43年(1968年)までに書かれたものです。
ラジオNHKの第2で放送されていた「療養文芸」で選者の村野四郎先生に認められた作品と、詩誌「無限」、「黄薔薇」(詩人の永瀬清子さん主催)、「樫」(三木昇さん発行)などに発表された作品の中から選んでまとめられています。
メモ
1969年11月3日、塔和子発行。絶版。
題字・宇留野清華(口写真頁・第7回日展入選「分身」宇留野清華書)
装画・二葉由美子
2007年4月11日、でじたる書房より電子書籍として発行。